王家の宝石 | 9月の誕生石 - ロマノフ家のウラジーミル・サファイア・ココシニク
概要
ロシア大公妃が所有していたティアラ。
のちにルーマニア王家所有となる。
なお「ココシニク」とは、ここでは同名のロシアの頭飾りを模したティアラを指す。
名称
THE VLADIMIR SAPPHIRE KOKOSHNIK
起源
1909年、ウラジーミル大公妃ことマリア・パヴロヴナがカルティエにオーダー
宝飾メーカー
Cartier カルティエ
歴史
①マリア・パヴロヴナ(ウラジーミル大公妃)
ロシア皇帝の弟・ウラジーミル大公の妻であるマリアは「ウラジーミル大公妃(Grand Duchess Vladimir)」として知られました。
その為このティアラもウラジーミル・サファイア・ココシニクと呼ばれます。
マリアはロマノフ家が所有していた サファイア6石+137.2カラットのサファイアを使ったティアラをカルティエにオーダーしました。
②革命に巻き込まれる
①のマリアがカルティエにティアラをオーダーした8年後の1917年、二月革命が起こります。
この革命で 義理の甥である皇帝は退位を余儀なくされ、皇族であったマリアも宮殿を離れます。
この際、ティアラは宮殿内の金庫に秘密裏に隠されました。
革命派が捜索にあたったものの、見つからずに済んだようです。
◇
後にアルバート・ストップフォードという男が宮殿からサファイアティアラ含む200点以上のジュエリーを持ち出します。
この人はイギリスの骨董・宝石商、また外交特使でもありました(←と言っても、正直私もピンと来ていません)。
元々マリアとは親しい仲であり、宮殿に隠していたジュエリーの在処を聞き出してロシア国外に持ち出したのです。
◇
さてこのストップフォード氏によってロシア国外に持ち出されたウラジーミル・サファイア・ココシニクですが、1度製造元のカルティエに戻ったそうです。
しかし、元の持ち主であったマリア・パヴロヴナは 再びティアラをかぶることは無いまま、1920年に亡命先で亡くなりました。
彼女は息子を擁立してロマノフ朝を復活させることを望んでいましたが、その願いが叶う事はありませんでした。
③ヴィクトリヤ・フョードロヴナ
①マリア・パヴロヴナの息子の妻。
結婚してロシア大公妃となってから1年足らずで革命が起こり、マリアと同じく亡命。紆余曲折を経てフランスに渡ります。
その後、詳しい経緯は不明ですが カルティエに戻っていた義母のティアラを受け継ぎました。
④マリア(ルーマニア王妃)
③ヴィクトリヤの姉。
ルーマニア国王フェルディナント1世と結婚しており、妹からティアラを購入しました。
姉妹間で金銭のやり取りとは随分他人行儀な印象がありますが、実はきちんとした理由があっての事でした。
理由の1つは、妹ヴィクトリヤが亡命生活で金銭的に豊かではなかったから。
しかし姉もお情けで金を出した訳ではなく、ティアラがどうしても必要なわけがありました。
あの世界中を巻き込んだ戦争が関係していたのです─。
ちょっと長くなりますが、ルーマニアの歴史にスポットライトを当てながらお話しします。
時計の針を戻して、ロシアで革命が起こり、妹ヴィクトリヤが国を追われる3年前。第一次世界大戦が勃発します。
当時のルーマニア国内の不穏な状況を鑑みて、姉であるルーマニア王妃マリアは 王家の宝石を親戚筋のロシア帝国に預けました。
一体この時ルーマニアはどういう情勢だったのでしょうか?
ポイントを3つに絞ってお話しします。
【ややこしやルーマニア①】複雑な国王夫妻の血筋
第一次世界大戦開戦直後に 国王が崩御。
新国王→同盟国のドイツにルーツが、
新国王妃→協商国の英露にルーツがありました。
つまり国王夫妻の祖国が敵対関係でした。
【ややこしやルーマニア②】複雑な国の位置
ルーマニアは連合国(赤字)・協商国(青字)のいずれとも国境を接していました。
更に各国境付近(縞模様)では複数の民族が入り乱れる混み入った状況でした。
【ややこしやルーマニア③】国王と国民感情との乖離
多民族が混在する地域の中でも、特にトランシルヴァニア(水色縞)をめぐり ルーマニア国民の中でオーストリア=ハンガリー帝国への敵対心が高まります。
トランシルヴァニアは ルーマニア系住民の数が多いにも関わらず、少数派のハンガリー系に支配されていた為でした。
そして次第に協商国(青色)側につきたいという声が大きくなってきます。
それはつまり、同盟国寄りの国王とは反対の意見でした。
まとめると、こんな感じ↓
国王夫妻の祖国が敵同士でややこしや
地政学的にもややこしや
国王と世論が噛み合わずややこしや
このようなルーマニアの不安定な情勢から、王妃は先述の通り 親戚筋の大国ロシアに手元の宝石を預ける事にしたのでした。
◇
しかし、革命によりロシア帝室は消滅。
更にルーマニアが当時のロシア領を獲得した事で両国の関係も悪化し、結局ルーマニア王国は戦争が終わってもロシアに預けた宝石を取り戻せない状況になってしまいます。
◇
色々あったものの、結局 協商国側についたことで何とか戦勝国となり「大ルーマニア」として版図を広げたルーマニア。それなのに王族が身につけるジュエリーが無いという事態に陥ります。
そこでルーマニア王妃マリアは、革命により嫁ぎ先のロシアを追われた妹・ヴィクトリヤ(③)が所有するロマノフ家の宝石に目をつけたのでした。
説明が長くなりましたが
姉マリアはとにかく宝飾品が必要。
妹ヴィクトリヤは亡命生活でお金がない。
という訳で、マリアはわざわざヴィクトリヤにお金を渡してティアラを買い取ったのです。
この時の事について、姉マリアはこう書き残しているそうです:
元々は大国ロシアに嫁いだ妹の方が勝ち組だったであろうに、戦争で立場が逆転してしまいましたね…。
⑤イレアナ(ルーマニア王女)
④マリア(ルーマニア王妃)の娘。
1931年にオーストリア大公と結婚した際、母からティアラを譲り受けます。
しかし完全にイレアナの手に渡った訳ではなく、母マリアと貸し借りをする事もありました。
◇
1935年、当時のイギリス国王ジョージ5世の在位25周年式典が行われます。
イレアナはこれに参加する母マリアにティアラを貸し出しました。
◇
さてこの式典に参加した際、母マリアはロンドンの銀行にティアラを預けてしまいます。
この頃ルーマニア国王(マリアの息子、イレアナの兄)の不人気やファシストの台頭で国内がまたまた不穏な状況であり、その事態を案じての行動でした。
マリアは1938年に死去。
その後、娘のイレアナは相当苦労して 何とかティアラをロンドンから取り戻したようです。
翌年に第二次世界大戦が勃発してますから、あと少し遅かったら また取り戻せなかったかもしれませんね。
◇
とは言え、この後イレアナの波瀾万丈ぶりに伴い、ティアラも驚きの軌跡を辿ります。
これだけで1本の記事が書けそうなのですが、字数が多くなってきたので簡単にまとめました。↓↓
↑イレアナは、彼女の兄であるルーマニア国王カロル2世からその人気を妬まれ、国を追い出されます。
そして夫の親戚筋であるオーストリアに住んでいました。
その後一旦ルーマニアに帰りますが、今度は王政が崩壊して再び亡命。
しかし子供を抱えての生活は大変だったようで、紆余曲折を経て ティアラは売却せざるを得なくなったのでした。
かつては世界有数の大金持ちと言われたロマノフ家が贅を尽くして作らせたティアラ。
しかし度重なる戦争や革命を経て、亡命王族が生活のため売り払うというまさかの最後でした。
おわりに
国を追われ、亡命生活に苦労した最後の持ち主 イレアナ。
こう書くと悲劇のプリンセスという感じがしますが、彼女の自伝的書籍『I Live Again』によると非常にポジティブで明るい人柄だった事が窺えます。
「金銭的に苦しい生活の中では、ティアラがあっても衣食住の役には立たない」
と潔くティアラを手放し、新しい人生を前向きに歩んでいました。
死ぬまで権力に固執した初めの持ち主、マリア・パヴロヴナは草葉の陰でキーッとなっているかもしれませんが、最終的に売られてしまったのも時代の流れと言えるかもしれませんね…
長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。
【お知らせ】
今回の記事で、誕生石シリーズが1周した事になります。次回以降は宝石記事を不定期の更新とさせて頂き、その代わり誕生石以外のジュエリーも取り上げられればと考えております。
宜しければ、今後もお付き合い頂けると嬉しいです。
参考
・The Royal Watcher
《 Vladimir Sapphire Kokoshnik 》
・royal-magazin.de
《 Romanoff Tiara und Parure mit Saphiren der Großfürstin Wladimir | Zaren Schmuck
Imperiale Juwelen 》
・INTERNET ARCHIVE
《 I Live Again 》
書籍はこちら↓
・ルーマニア史 (文庫クセジュ)
・Wikipedia
《 Albert Stopford 》
《 マリア・パヴロヴナ (ロシア大公妃) 》
《 ヴィクトリア・メリタ・オブ・サクス=コバーグ=ゴータ 》
《 イレアナ (ルーマニア王女) 》
《 第一次世界大戦 》
・YouTube
The Great War
《 Romania in World War 1 I THE GREAT WAR Special 》
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