楽しむことは悪じゃない
コロナ禍から抜け出せず、ついに第7波とか言い始めている。
娘のキッキは5歳になった。この1年の成長は凄まじく、色々不安視していた彼女の弱い部分は、少しずつ克服していたり彼女の魅力的な部分として消化されたりしている。
おしゃべりも考え方もぐんぐん上達し、パパに反抗しながら私を擁護してくれたり(その件に関しては本当にこれでいいのか?と思う場面も...)幼少期の終わりの始まりを感じる日々。
ひとりっ子の我が家は、ああおうちから小さい子が居なくなるのはもうすぐなんだなぁとか、センチメンタルな気持ちに気づかないふりをしている。
2人目が欲しいのは常であるが、こればかりは上手くいかないなら仕方ない。今ある生活の面白味を味わおうと夫と言っている。優しく、鋭く、親達とは違う視点で人を許せる娘と並んで生きる日々は味わい尽くせないほど楽しい。
坂本美雨さんの「ただ一緒に生きている」というエッセイを読んだ。元々大好きなコラムを書籍にまとめたものだった。一人娘のなまこちゃんとの日々、そこには共感しかなかった。娘とはいえ、だだ一緒に生きている家族。娘に感じて欲しいことを、同列で自分も感じる。娘を通して世界を見ることは、自分を育て直すことであり、これまでも存在には気づいていたけど放っておいた心の真ん中の大人になれなかった自分を許して愛してあげる作業。
おこがましいが、自分の言葉にならない感情を、会ったこともないミュージシャンの方がしっかりと文章にしてくれた感覚。嬉しかった。本を読むとは魅力的な作業だなぁと、産後めっきり活字離れが進んだ自分ではあるが、改めて気付くことができた。
日々の暮らしは本当に尊く、ついつい噛み締めることに貪欲になるくらい楽しい。
コロナによる閉塞感のピークがまたよし押せている中、暮らしで感じる尊いあれこれを抱きしめずにはいられない。
家族3人、どうにか楽しもう。一瞬を味わおう。強迫観念にも似たこんな気持ちを、コロナに煽られているような気がする。
昨日、娘と地域のお祭りを2件ハシゴした。1件目は浴衣を着せて。保育園の夏祭り用に娘が自分で選んだ紫の紫陽花の浴衣。保育園の夏祭りの開催もどうなるかわからない昨今、着れる機会があるうちにどんどん着よう!という魂胆だ。浴衣を着た娘はもちろんべらぼうに可愛く、お祭り会場でうちの子1番可愛いんじゃない?と本気で思っていた。
混雑する中、人との距離を気にしながら表情や汗を常に観察、頻回に水分補給を促し、あれもやりたいこれもやりたいという娘と駆け引きをし、草履痛くないかなこのあと駐輪場まで歩けるかな...
コロナ禍の真夏のお出かけ、親達懸案事項多すぎないか?? 頭は常にフル回転。聞き分けのいい一人娘相手ですらこの疲労感。もう少し気楽にお出かけできる世の中はどこに落ちているんだ??
そんな親の見えない疲労はよそに、娘の瞳はキラッキラしていた。原価計算したら負けだぞって位のスーパーボールすくいやくじ引きを堪能し、クラフト体験で作ったオリジナル缶バッチを大切に大切に抱えていた。
夜、Amazonの箱に娘がお絵描きをしていた。
そこには娘と私が花火大会へ行った絵が描かれていた。
「コロナがいなくなったらママと私で花火大会にいくの。私は紫のおきもの(浴衣)で、ママは水色のパジャマでいくよ。パパはね、この日お仕事なの。」
色々ツッコミどころは散在しているが、家にあるポスカ全色を使って描かれた花火は本当に美しかった。
コロナがいなくなったら。そんなことを5歳の娘はサラッと言う。子供にそんながまんを強いる世界に、どう気持ちの折り合いをつけたらいいのか。いつまでこの作業を繰り返すのか。
お祭りで見せてくれた娘の表情は、本当に美しく尊いものだった。しかし、混雑した場所に連れてきてしまったというハラハラ感は有った。だけども絶対に忘れてはいけない。楽しむことは悪じゃない。幼少期に積み重ねる心のキラキラを奪う方が、よっぽど悪だ。
だから今日も、頭フル回転でできる範囲の配慮をしながら全力で遊ばせよう。そして一緒に寝落ちしよう。
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