見出し画像

ばかで 無防備で 地獄でも。

ばかだよな、そう思う。
深刻さによってではなく、からっとしたあきらめの感情を抱くとき、安堵感に満たされていく。ずっとのしかかっていた心の重石から解放されるというか。


高校生のときの部活の話。
バリバリ体育会系の部活で、部活終了後、罰トレーニングをするという風習があった。(通称バッチョと呼ばれていた)
部長の采配で、あいさつを忘れたり態度が悪かったりすると行われる。おそらく、2週間に1回くらいのペースでやっていたと記憶している。

ある日、5kmほどのランニングで、自己ベストを更新しないと、もう1周追加されるという鬼畜仕様なトレーニングが行われた。絶望的な気持ちでスタートラインにしぶしぶ立った私に、部長は「死ぬ気で走れ!そしたら大丈夫やから」と声をかけた。

他の人がどう思うかわからないけど、わたしはその言葉を聞いて、心底安堵した。そして、大丈夫だと思えた。
そうか、死ぬわけじゃない。死ぬ気でやればいいのか、それなら簡単だ。
結果、死ななかったし、自己記録も大幅に更新した。


話を戻すが、前述した「ばかだよな」と自分を笑い飛ばすときの感覚と似ているような気がしたのだ。

ばかだよな。

死ぬ気でやったらいける。

その2つの言葉は、最低ラインの言葉のようだが、暗い現実に飲まれそうな心をすっと引き離してくれる。
客観的に自分を遠いところから眺めてみたら、「ああ、またバカやってんなぁー」とギャグのように笑い飛ばせられる。

わたしはキラキラした気持ちをずっと持ち続けることなどできない。あるかどうかすら曖昧な信念だって、ゆらゆら揺れ動いていて消えそうになることもあるし、突如として、絶望におそわれることもある。

見たくない現実や、途方に暮れるような未来に、それでも「前向きに」という空っぽなエネルギーを蓄えるより、どん底に「後ろ向き」になって、笑いによって一掃できる方が、よっぽど気持ちは晴れやかだ。

ばかな自分を認められたとき、すごく身軽な気持ちになる。と同時に、これまで自分が見せたくない部分を隠し、弱い部分を飾り立て、武装状態を維持していたことに気づく。しかし、守り続ける必要はなかった。武装しなくても守られていた。
そう思うと、これから傷だらけになったとしても、そんな自分をも笑い飛ばせる気がした。

無防備のままいこう。ばかなままでいよう。
何度でも地獄の底から這い上がろう。


最後にこの歌詞を思い出したので添えておきます。


思い描くものになりたいと願えば
地獄の底から次の僕が這い上がるぜ
by 星野源 「化物」


#考え事 #ばか #エッセイ


サポートとそのお気持ちは、創作や家族の居場所づくりのために還元できたらと思ってます。