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読書は単なる暇つぶし

私は前回の記事で、知らないことを知れるとか、知識欲とか、仰々しく語っているが、読書は私にとって結局単なる暇つぶしなのかもしれない、とも思う。(なんて華麗な手のひら返し)

 暇つぶしに優劣なんてつけるもんじゃない。ましてや本を読むという行為だけで自分がなにかを成し遂げた気になるなんて、なんて浅はかなんだろうか。でもそんな、読書を高尚なものとするような空気感は結構な人の間に流れている気も、する。
本を読むこと自体が素晴しいことなのか?でも活字を追っているとたしかに気持ちが落ち着くし。ただそれは、良いことなだけで素晴らしい訳では無い。だからやっぱり単なる暇つぶしだ。

YouTubeやインスタのリールを見るときと読書をしている時だと、読書の方がなんかすごいことをやった気分になるの、馬鹿げている。達成感を感じている私、たぶんかなり滑稽だ。どちらも目(と耳)から得た情報をどっか後ろの方に垂れ流しているだけなのに。どうせ本で得た知識も数時間後にはほとんど忘れているのに。結局覚えているのは、YouTubeでも本でも、なんか面白かった。みたいな感想、笑ったか泣いたかとか、そんな大雑把な感情だけなのに。

 でもそうやって考えると読書も気楽なものになる。気楽に暇を潰していこう。なんとなく世間様の圧力があることによって読んでるだけで賢くなったり、凄いやつになったりした気分を気軽に味わえる、単なる暇つぶし、時々それ以上の効果を発揮することもある、どうでもいい行為。
好きなYouTuberを見つけたり、タイプのインスタグラマーを見つけるみたいに、好きな作家やタイプの本を見つけていこう。全部同じ、お気に入りを見つける行為なんじゃないだろうか。ま、読書が暇つぶしなら、人生だって大きくて長い暇つぶしだ。人生は暇つぶし、誰が言ったか知らないけどそういう言葉、あったよね。

 あ~しかし人間って本当に馬鹿で面白い生き物だなぁ。本当に人間でよかった。
ほかの生きとし生けるものたちが、「生きる」ために狩猟やら生殖やら睡眠やらを繰り返して必死に生きているのに、私たち人間は、生きることそっちのけで色んな暇つぶしに力をいれている。暇つぶしのために生きていると言ってもいいかもしれない。生まれて死んでいく課程の中で、この行為は遠回りにもほどがある。でもきっとこの道草を食うみたいな暇つぶし、生命維持のためには余計なこの生きるときの''あそび"的な部分を人間から取り上げると、多分私たちはすぐ死んでしまうんじゃないかな。ま、こういう話は哲学とか人類学で散々されていると思うけど。

 ちなみにクソ余談ですが、高校倫理で人間は文化的な生き物だ的な私が今書いたのと同じようなことをいっていた哲学者のことを勉強した気がするのですが完全に忘れてしまい、モヤモヤしています。もしコイツか?と思い浮かぶ人がいたら教えてください。"遊び"に引っ張られてホイジンガのホモルーデンスを思い出したけど多分彼じゃない。
というかほらすぐ忘れる。彼らから学んだかも知れないこともまるで自分が考えましたみたいな感じで曖昧な記憶にしてしまうの、いやだな。でも同時にあいつら哲学者から学ばなくてもこれぐらいのこと一人で思いついて分析できますけど?みたいな感じになるのもおもしろいよな。で、結果私が考えたことは私のもの。みたいな独占欲が生じるのも愚かで草。そんな独占欲があるなら誰にも話さず心の中にしまっておけばいいのに、顕示欲も兼ね備えてるからどうしようもない。思想で他の人との差別化を狙うのまじで無謀だからやめといたほうがいいのにね。

ああまた話があっちっこっちにいってしまう。でもこれも私の単なる暇つぶしなら、まあどうでもいいって話。なんにもならない、何も得られないただの話。今日も一日怠惰に暇を潰して終わりました。無事に暇を潰せました。暇つぶしのゲシュタルト崩壊が起こりそう。

 よく言う、何者かになりたいけど何者にもなれない自分。は、結局ただの自分のままで死んでしまうだろうけど、それも全部意味の無い暇つぶしだったらなんか生きやすいかもしれない。人生に、自分に意味を見つけたい日は頑張って見つけ出して満足したりモチベーションを高めればいいし、しんどい日は今まで鼓舞してきたそういうかっこいい自分ごと全部無意味な暇つぶしっだったて思えば楽になるかもしれないし。だから今の私は、暇つぶしの気分です。

 こんな暇つぶしに付き合ってくれた、私の殴り書きで暇を潰してくれた方も、ありがとう。皆さんはこれからどんな暇つぶしをしますか?是非おしえてください。一緒にのんびり、なんか悟った気分とか味わいながら、ゆっくり、生きていきましょう。

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