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誕生日に死を思う
昨日は誕生日でした。
45歳になりました。
あと15年で還暦なんだな、
そう思うと、
もの凄い焦りと、「やらねばならん」という意気込みと、
いろんな感情がウネウネと、蠢くのを感じました。
時間がない。
ここ最近、とみに思っていることです。
そして、わたしが縄文時代に生きた人たちに心を寄せるのは
この点なのだと、やっと気がつきました。
わたしは、先史時代に関して書籍やエッセーなどを書いて暮らしています。
特に縄文時代に関するお仕事が多いのですが、
縄文人に関するエッセーを書く時には
「死」
というものを意識して書いています。
彼らは死を遠いものとはせず、常に死に目を向け、
「だから自分はどう生きるのか」
ということを無意識下に置きながら生きていたと
勝手に解釈しています。
というか、人間とは、本来そういう動物であったはずなのに、
いつの間にやら自分に与えられた時間は有限と錯覚を抱くようになり、
ただ、漫然と生きてしまう。←という、わたし。
だから、縄文人の生き方を知った時(会ったことはないど)
彼らのように生きたいと強く思うようになったのです。
彼らが作り出す造形物は、いろんなものが混じっています。
愛、思想、死、詩、言葉、葛藤、自己顕示、規律、
直感、見えないものとの対話。
そういったものが、あの造形物たちから立ち上ってくるのです。
それは、生きている証。
そう思います。
わたしは縄文人のように生きているか。
会ったこともない人たちだけれど、
彼らのように、死がピタリと張り付いた人の生き方ができているか。
人はいつ死ぬかわからない。
それを本当に思って日々を生きているか。
誕生日は、そんなことを思っていました。
わたしの人生の師匠、縄文人たちを想いながら。
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