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国語力の低下が招くサブカルチャーの大衆化について

思うに、遠回しの言葉は人々に届かない時代が来たと考える。
かつて、美しい言葉遣いで感動や考察を与えていた歌詞や小説は
その言い回しをやめて、より直接的な言葉を使うようになった。

例えば騒がしいや、鬱陶しいを表すために、かつて(頭に響くような金切り声が部屋を埋め尽くす……)や(居場所のないここを離れ列車に乗り私は一人街を去る……)など全体的な文章からそれとなく内容を理解したり考察を得たりするのが、一種の読者・聞き手の義務であり権利であり、楽しみでもあるのである。

が、昨今の日本の国語力の低下が招いた(正確には受け手の年齢層の低下等を含む)受け手の読解力不足がそういった美しさのある作品の内容が届かなくなっているので、より単純で簡単な言葉を使った物が伸びる(流行する)事となる。先程の例に擬えるならば「楽曲、うっせえわ」なんかは直接的な文章をそのまま利用することにより読者は理解しやすく、心の叫びを表すことに成功している。

結果的に受け手の自由だった考察がなくなって、良く言えば受け手に寄り添う歌詞、文章が増えているのでは?と考えられるのだ。

従って、今後もそうだが流行しやすいものは、受け手の思考・生活に寄り添った文章でかつ、直接的・感情的な曲・小説(なろう系など)が当てはまるのであろう。

私含め作り手はこういったことを理解し作品を作らねば
伸びない時代が到達している(通過している)と私は言いたい。

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