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19.イノベーションを起こしたー甲斐の猿橋ー


桁橋から片持梁橋へのイノベーション

 文明が発展したメソポタミアや中国沿岸地域とは異なり、国内では森林資源が豊富なため、石橋とは異なる木造橋が独自の発展を遂げた。

 特に、深い谷のように橋脚を立てるのが困難な場合には、桁橋けたはしに替わる新たなアイデアが必要である。いにしえの時代には、創造的思考によるイノベーションが必須であった。

 国内では、豊富な木材を利用した片持梁かたもちばりのアイデアが実用化されて大きく発展した。
 一方で、深い谷を渡る吊橋つりばしに関してはつるに代わり高強度の鋼鉄線が開発されるまで、大きな進展は認められない。

日本の三奇橋について

 古くから木材を構造材料とした「日本の三奇橋」と呼ばれる橋がある。「甲斐の猿橋」「越中の愛本あいもと橋」周防すおう錦帯橋きんたいきょうである。
 しかし、越中の愛本橋の代わりに「木曾のかけはし、あるいは祖谷いや|かずら橋」を入れる説もある。

 「甲斐の猿橋」は片持梁橋、「越中の愛本橋」は大型の片持梁橋、「岩国の錦帯橋」はアーチ橋である。
 
一方、「木曽の桟」は河川を渡る橋ではなく、川に沿って設置された|桟道
《さんどう》であった。また、「祖谷のかずら橋」は丈夫で腐りにくいシラクチカズラのつるで編まれた吊橋である。

 いずれも日本の古橋の中では、現在も著名な橋として知られている。残念ながら、「越中の愛本あいもと愛本橋」と「木曾のかけはし」は現存せず、架橋の跡地が残されているのみである。 

桂川かつらがわに架かる「甲斐の猿橋」

 山梨県大月市の相模川上流の桂川には甲斐かい猿橋さるはしが架けられている。甲斐とは甲斐の国、今の山梨県である。
 浮世絵師の歌川広重が「甲陽猿橋の図」を描いたことで良く知られ、1932年(昭和7年3月)に国の名勝に指定された。富士山の溶岩流により川幅が狭められた特殊な地形に架かる橋である。 

 橋長:30.9m、全幅:3.3m、水面からの高さ:約30mで、桂川両岸から橋桁をね出した木造の刎橋はねばしで、桔橋はねばしとも書かれ、現存する国内唯一の美麗な刎橋形式の木造人道橋である。
 桔橋の桔木はねきは寺社建築で屋根を支える肘木ひじきに似ているため、|肘木《ひじき》橋とも呼ばれている。

図1 歌川広重の描いた「甲陽猿橋の図」と現在の写真(桂川の下流には水路橋が観える)

 猿橋下流の「八ツ沢発電所一号水路橋」は、東京電力の駒橋発電所で利用した水を下流にある上野原八ツ沢発電所で利用するために架けられた。 
 1912年竣工の鉄筋コンクリート橋で、橋長:63.63m、全幅:5.45mである。1997年9月に国の有形文化財に登録された。

刎橋形式の「猿橋」の構造について

 猿橋の架橋では、両岸を掘り込み、桔木はねぎの一端を土中に埋め込み、先端を持ち送りにして4段2列で片持梁をせり出し、その上部にに橋桁(行桁ゆきげた)を載せている。

 一の桔木を枠柱で支え、その上に横梁を置いてせり出した二の桔木を支え、さらに二の桔木の上に横梁を置いてせり出した三の桔木を支え、さらに三の桔木の上に横梁を置いてせり出した四の桔木を支える。
 桔木は一辺が60cmの角材で、最下段の一の桔木は長さが約12mで、土中に約9mが埋め込まれ、約3mが前方にせり出している。最上段の四の桔木は長さが約17mであり、土中に7mが埋め込まれ、約10mが前方にせり出している。

図2 桂川に架かる「猿橋」の断面構造

 ところで、木材は加工が容易であるが、腐り易く、摩耗し易いため耐久性、また耐火性、耐虫性に問題がある。
 特に、片持梁橋では、土中に埋設された木材は腐りやすく、木材成分を栄養源とする腐朽菌の増殖を防止するため、雨水を防ぐ対策が必須である。

 江戸時代の猿橋は、高欄と橋床には耐久性に優れたくり材、一の桔木とそれを支える枠柱には強度の高いけやき材、その他はすぎ材が使われたようである。

 現在の猿橋は1984年(昭和59年)に、江戸時代(嘉永時)の原姿への復元をめざして架け替えられたものである。
 使用された主材料は台湾ひのきと秋田杉で、桔木部は耐久性を増すためにH型鋼の外側を台湾檜で覆い、内部空隙部にはモルタルが注入された。近隣の大月市郷土資料館には、現在の桔木の断面模型が展示されている。

 また、側面に張出した横梁の木口こぐちと桔木には、雨水の侵入防止用の小屋根が取付けられており、装飾にもなっている。しかし、架橋の当初から雨覆板が設置されたかは不明である。

写真1 両側岸壁から桔木がせり出し、横梁木口には屋根状の雨覆板が設置されている 

猿橋の由来と歴史

 「昔、推古帝の頃(600年頃)百済の人志羅呼しらこ、この所に至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る」と、猿の瀬渡りに着想を得て架橋した伝説が残されている。昔は吊橋であった可能性がある。

 正確な架橋年は不明であるが、「甲斐叢記」によれば、1226年(嘉録2年)の文書に「猿橋」の記載が見られるが、桔橋形式であったかは不明である。

 室町時代の1487年(文明19年2月)、聖護院の門跡を務めた道興どうこうがこの地を過ぎ、「猿橋」を賞して詩文を残し、過去の架け替えや伝説にも触れている。
 また、「猿橋」は1426年(応永33年)には武田信長と足利持氏、1524年(大永4年)には武田信虎と上杉憲房の合戦 の場になった。

 江戸時代には、1676年(延宝4年)~1792年(寛政4年)の間に修復と架け替えを行った記録が「往還筋御普請所并自普請之訳書上帳」に残され、甲州道中の要衡として御普請所工事(直轄工事) で9回の架け替えと、10数回に及ぶ修理が行われた。
 1706(宝永3)年 には 荻生徂徠おぎゅうそらい『 峡 中 紀 行 』で 橋 の下には柱がなく、両岸 から巨木を 1尺(約30cm) ずつせり出すように重ねて橋を架けているとの記載がみられる。桔橋形式のことである。
 1841年(天保12年)には、歌川広重が甲府を訪れており、翌年には大型錦絵「甲陽猿橋図」を描いた。

 明治時代には、1900年(明治33年)の架け替え時に全幅を広げ、桔木を2列から3列に増やして斜材を入れるなど大きな変更が行なわれた。

 昭和時代に入り、1932年(昭和7年3月)に国の名勝に指定された。1934年(昭和9年)には上流側に鋼製アーチ形式の新猿橋が完成し、猿橋は人道橋 として残されることになった。

 現在の猿橋は、江戸時代の1851年(嘉永4四年)の出来形帳に沿って架け替えられ、江戸時代の猿橋を再現したものである。1983年( 昭和58年)に着工、1984年(昭和59年8月)に完成、総工費3億8300万円を要した。

写真2 「名勝 猿橋」の由来の説明板

 2001年(平成13年)と2011年(平成23年)には、猿橋の歩行面の板の埋木と欄干も含めた木部への防腐剤の塗布が行われた。

 2022年12月~2023年2月には、猿橋の保全修理を目的ととしたクラウドファンディングが行われた。是非とも、美しい猿橋の姿を後世に残して欲しい。

写真3 2001年に行われた「猿橋」の修復工事の全景(2002年3月撮影)

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