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20.学びに基づく進化を観るー越中の愛本橋ー


何故、越中えっちゅう愛本橋あいもとばしが架けられたのか?

 北アルプスを源とする黒部川は水量が多く、立山連峰に挟まれた峡谷を急勾配で流れ下り、峡谷を抜けると日本海に向けて最大半径13.5km、扇頂角約60℃の大きな扇状地を形成している。

 扇状地では、雪解け水に豪雨が重なると「あばれ川」と化し、川筋も一筋に定まらず、幾筋にも分かれて流れたことから「黒部四十八ヶ瀬」とも呼ばれ、北陸道の難所の一つであった。

 越中とは現在の富山県のことで、「愛本橋」は黒部川が峡谷を抜ける最終地点に架けられた木造橋であった。
 愛本橋を渡る街道は「上街道」、旧来の海岸沿いは「下街道」と呼ばれる。上街道は距離的には長いが黒部川が増水する夏季に利用されるため夏街道下街道は減水期の冬に利用されて冬街道とも呼ばれた。

図1 「下道中絵巻」に描かれた黒部川の扇状地 出典:金沢市立玉川図書館蔵

黒部川に架かる「越中の愛本橋」

 その昔、橋脚のない刎橋はねばしは、甲斐・加賀・越中・信濃・飛騨・木曽など国内各所で数多く架橋された。
 中でも最大級のものは、富山県宇奈月町の黒部川扇状地の扇頂部に架けられた越中えっちゅう愛本橋あいもとばしであった。

 1662年(寛永3年)、加賀藩5代藩主の前田綱紀つなのり指図さしずを受けて、外作事奉行の笹井正房まさふさが愛本橋を架橋したと伝わる。

 室町時代に記録がある「甲斐の猿橋」のことは、既に知っていたであろう。その知識を発展させて、より長大な刎橋へと進化させたのである。

 現地には旧愛本橋の跡地であることを示す案内板が残されているだけである。跡地に立ち北アルプスを臨むと、何故、愛本橋はこの地に復元されなかったのか?残念でならない。

写真1 「日本三奇橋 愛本の刎橋」の案内板

愛本橋の構造について

 1863年(文久3年)に架け替えられた最後の愛本橋が、1889年(明治2年)に解体された折の記録では、全長:61.4m、径間(スパン):46.7m、中央幅:3.63m、両端部幅:7.26m、水面からの高さ15m程度とある。

 猿橋の橋長:30.9m、全幅:3.3mと比べると、約2倍の長尺化を実現したことが分かる。当時、世界最長の刎橋であろう。

 最下段となる枕梁(66.6cm角、長さ:8.28m)を枕柱(66.6cm角、長さ:3m弱)5本の上に設置し、元刎木(51.5cm角の長さ:12.7m)9本を枕梁上にのせ、先細りの扇形に並べて全長の1/3を約20°の角度でせり出す。いずれも強度と耐久性に優れたけやきが使われた。

 次に示す木組みの構造は複雑であるが、旧愛本橋の1/2復元模型の写真と比べて読み進むと、良く理解できる。

 元刎木の上には、3列で二の刎木六の刎木まで6層が重ねられた。上段ほどせり出すため長尺の刎木が必要となるが、33.3cm角の杉材(長さ:12.1mと18.2m)を、かすがいと鉄板を巻き付けて鉄鋲てつびょうで止めてつながれた。いずれも耐久性に優れたすぎが使われた。

 せり出した刎木と刎木の間には、66.6cm角、長さ:14.4mの杉材である|
吊桁《つりげた》
が3本設置された。また、元刎木の埋設部分には長さ12mの斜め材がV字型で、刎木間にもX字型で触れ止めが設置された。
  敷板には、上板に硬く湿気に強い厚さ:4cmの草槙くさまき 、下板には厚さ:5cmの杉材が使用された。

 猿橋に見られない愛本橋の特徴は、傾斜する刎木の上に柱を立てぬきで固定した上に橋桁・橋床を設置した点に観られる。これは寺社建築で用いられる懸造かけづくりの技法であり、格子状に組まれた木材同士が支え合い、衝撃力の分散に有効である。

図2 明治20年代初期の愛本橋と構造図

旧愛本橋の1/2復元模型

 近隣のうなづき友学館(富山地方鉄道下立駅から徒歩5分)には、旧愛本橋の1/2復元模型が展示されている。
 1/2復元模型といっても、見上げるばかりの大きさで、複雑な木組みの構造が見て取れる。

写真2 9本の元刎木から3本に集約され先細りの扇状にせり出した6層の刎木
写真3 刎木の上に懸造(かけづくり)の技法で設置された橋桁と橋床

愛本橋の架け替えの歴史

 江戸時代に架橋された愛本橋は、その創建から架け替えまでの記録が「越中古文書」などにあり、比較的充実している。

 愛本橋が架けられる前、地元の旧家の由来書には「藤橋」が架けられていたと記されている。藤橋ふじはしとは、藤のつるを使った吊橋のことである。
 1626年(寛永3年)には打渡橋うちわたりはしが架けられたと記されている。詳細は不明であるが、杭を打って渡す橋であれば吊橋と考えられる。

 1662年(寛文2年6月)に、初めて「刎橋の架橋」が記された。その後、1690年(元禄3年)~1862年(文久2年)まで8回の架け替えが行われた。架け替え期間を考えると、20~30年に1回の頻度で架け替えが行われた。

 1891年(明治24年10月)大洪水で流出した刎橋に替わり、木造アーチ橋(|木拱橋《もっこうばし》が、富山県技師の高田雪太郎の設計で架けられた。
 両岸の岩盤の上にセメントやモルタルも使って橋台を仕上げ、橋長:64.2m、径間:48.5m、全幅:6.06mの上路式アーチ橋を架けた。
 また、この折に、高田は最後の刎橋を解体して構造を記録した。

 1920年(大正9年9月)、富山県により、鋼鉄製の下路式トラス橋に架け替えられた。橋長:55m、径間:52.4m、有効幅:5.06mである。

 1969年(昭和44年8月)の大洪水でトラス橋は流失した。そのため、旧橋から65mほど下流に、1972年(昭和47年7月)鋼製ニールセンローゼ桁橋が架けられた。橋長:130m、径間:128.4m、幅員:8.5mである。

写真4 現在の鋼製ニールセンローゼ桁橋の愛本橋

参考文献:秘峡黒部の愛本橋、宇奈月町教育委員会、宇奈月町歴史民俗資料館、平成10年8月2日

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