見出し画像

23.イノベーションを積み重ねたー周防の錦帯橋ー


情報を収集して何が問題かを明らかにする

 深い谷のように橋脚を立てるのが困難な場合には、桁橋けたはしに替わる新たなアイデアが必要である。いにしえの時代にも、創造的思考によるイノベーションが起きた。

 国内では、豊富な木材を利用した片持梁かたもちばりのアイデアが実用化され、刎橋はねばし桔橋はねばし形式が広がった。「甲斐の猿橋」、「越中の愛本橋」などなど。

 一方、広い川幅への対応では、川中に幾つもの橋脚を立て、その上に橋桁を渡して橋床を敷く「桁橋」の適用が広がった。しかし、洪水が起きるたびに橋が流失する事態に直面した周防すおう(今の山口県東部)では、洪水が起きても流されない橋の開発が喫緊の課題となった。

 調査の結果、桁橋の流失の主原因は、洪水による橋脚(古くは橋台)の崩壊にあった。解決すべき問題は、①橋脚の崩壊対策と、橋脚の数を最小限とするために、②径間の長い橋体の開発である。

イノベーションを起こしたのは?

 三代岩国藩主の吉川広嘉きっかわひろよしは早くから、流れない橋への研究を始めていたと伝わる。しかし、にしき川の川幅は約200mと広く、出水時の急流は想像を絶した。

 1661年(寛文元年)、事実上、錦帯橋きんたいきょう架橋を担当とする大工の児玉九郎右衛門に、橋長:30mである「甲斐の猿橋」の調査を命じた。

 1664年(寛文4年)、明の帰化僧独立どくりゅうが岩国に招かれた。広嘉は治療を受けるかたわら、浙江省杭州市の名勝西湖が書かれた『西湖遊覧志』の説明を受け、島伝いに反橋そりばし(アーチ橋)を架ける発想を得た。

 1672年(寛文12年)、錦帯橋が架橋される前年にも、児玉九郎右衛門を最新技術の窓口である長崎に派遣した。

 広く情報を収集し、何がポイントかを読み取り、考えに考えた末、川中に強固な橋脚(橋台)を造りアーチ橋を架けるアイデアに至ったとされる。このアイデアを試すため、広嘉は橋の模型まで造らせて研究を進めた。

三奇橋のひとつ「周防の錦帯橋」の橋体

 錦帯橋は、山口県岩国市にある横山地区(岩国城側)と錦見地区(城下町側)の間を流れる錦川(岩国川)に架けられた橋で、木造多連式反橋そりばしで5連からなり、橋長:193.3m、全幅:5.0m、橋脚高さ:6.64m、中央反橋の最大高さ:13.03mである。
 中央部には大きな反りを持つ3連の反橋が架けられ、反り高:5.184m、径間:35.1mである。その両側には反りの緩やかな桁橋が配置され、反り高:3.19m、径間:34.8mである。

写真1 橋脚(橋台)から迫り出す木組みの橋体

 現在、残されている錦帯橋の構造図は12枚あり、最古のものは1699年(元禄12年)のもので、最古の図面には桁の勾配や本数、材種などが詳細に記されている。

 「平成の架替」(平成13年度~15年度)に際して原寸型板が製作されたが、最新の錦帯橋研究の成果が盛り込まれ、橋体のり(アーチ形状)を再現するためカテナリー(懸垂線)が採用されている。

 アーチ橋の構造は、左右の橋脚(橋台)から1番桁、2番桁、3番桁と順に勾配を緩めながら11番桁まで先に迫り出すせりだすように重ね、左右の9番桁間に大棟木おおむなぎ、10番桁間に小棟木を入れ、巻金まきがねかすがいで一体化されている。

 橋脚(橋台)から迫り出す橋桁の様子から、明らかに刎橋はねばし形式の影響を受けている。加えて、防食対策では各所に銅板が使われており、梁木口はりこぐちには小屋根が付けられている。

図1 錦帯橋の構造と使用された木材

 錦帯橋に使用されている木材は6種類である。ただし、ヒバは平成の架替からの使用である。いずれも腐朽に強い芯材(木材の中心部分の赤身)が基本とされた。
 ただし、化粧材として使うヒノキ材は、芯の部分を外した芯去材しんさりざいを使用し、節の少ないものに限定された。

 また、防食対策として、木材にはPCP(ペンタクロロフェノール)のナトリウム塩5%水溶液の加圧注入処理が施されている。

表1 錦帯橋の木材の使用量と産地

錦帯橋の強固な橋脚(橋台)の進化

 江戸時代の錦帯橋の橋脚(橋台)の基礎は、川床の2~2.7m下に松の杭を打ち込み、その上に松の丸太を井桁状に組み造られた。
 その基礎の上に石積の橋脚を設置するが、外部は石を積み上げ、内部には川石や土などが埋め込まれた。

 橋台の形状は上流側と下流側が尖った流線型とし、川底部には広範囲で敷石を施し、急流による洗掘対策が施された。架橋後も、周辺の川床に捨石を施すことで敷石の補強を続け、橋台の維持に大きな注意を払っている。

 また、橋台の上部では、中央の隔石へだていしを挟むようにして橋桁を受け、その上に大石を重しとして載せて周囲を土で固めた。
 そのため、土で覆われた桁端部の腐朽により、約20年ごとの架け替えが必要であった。

 1950年(昭和25年9月)、キジア台風による錦帯橋の流失後、橋台の外観は原型に復元されたが、その内部構造は大きく変更された。また、洪水に備えて中央2基の橋台を約1m高くした

 すなわち、強固な剛性をもつコンクリートケーソン工法により深さ10mの基礎を土台とし、その上の橋台は鉄筋コンクリートにより製造され、旧観と合わせるため表面を石張りとした。

 また、橋桁の重量を直接受ける桁受けは、隔石へだていしを介した埋め込み式から、沓鉄くつてつと呼ばれる鋳鉄支承に変更された。これにより桁端が腐朽が防止され、架替期間が50年となった。

写真2 流線形をした橋脚(橋台)と洗堀を防ぐ川底の敷石

錦帯橋の掛け替えの歴史

 1673年(延宝元年)、三代岩国藩主である吉川広嘉きっかわひろよしの指図により錦帯橋が架橋される。

 1674年(延宝2年5月)、中央3連の反橋が流失したが、橋自体には問題は無く、橋台の崩壊が原因であった。同年6月には再建が始められ、橋台の周囲に大石を敷いて補強し、11月に渡始式わたりはじめしきが行われた。

 その後、錦帯橋は江戸時代を通じて流失することはなく、276年間を経過した。橋体の架け替えは、一部の改善と共に10回余り実施された。

 1950年(昭和25年9月)、キジア台風により、橋台が崩壊して中央3連の反橋が流失した。原因として、上流域の樹木の乱伐と、付近一帯の砂利の乱掘、敷石の脱落などが考えられた。

 1953年(昭和28年1月)、橋体部分は1801年の架替様式で木造5連の反橋に復元され、渡始式が行われた。また、橋台部分は現代工法を取り入れて大幅に強化された。総工費1億2000万円をかけ、昭和26年2月の起工である。

 2001年度(平成13年)~2003年度(平成15年度)の渇水期(冬季)には、総工費約26億円で「平成の架替」が行われた。橋台はそのまま使用され、第1期は中央部、第2期は横山側、第3期は錦見側の架替が行われた。

写真3 2002年(平成14年3月)渇水期に行われた錦帯橋掛替(第1期)工事の様子

参考文献) 岩国徴古館、「錦帯橋展」図録、(1998年4月5日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?