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24.現代の浮橋へと続くー越中の神通川舟橋ー


橋の起源について

 『橋の起源に関しては、川を渡るために飛び石を利用したり、川をまたいだ風倒木の上を動物が渡るのを見て考え出された。また、猿の群れが深い谷を渡るときのモンキーブリッジを見て、谷を渡る方法として考え出されたなどの諸説がある。』と記した。

 いずれも想像の域を出ないが、人類が自然の中で情報を収集し、橋というアイデアを見つけ出したことは間違いないであろう。これを積極的に発展させて利用したのが、石橋、板橋、吊橋へと発展したと考えられる。その背景には、川や谷を渡る必要性があったことはいうまでもない。

 一方、水上に浮かぶ舟を観て、舟から舟へと飛び移る様から「舟橋」が考え出された。地盤に橋脚を立てて橋桁を渡す橋とは、まったく異なった創造的思考(垂直思考)による発明である。 

万葉集東歌あずまうたにも出てくる「舟橋ふなばし

 万葉集 第14巻 3420番歌として、「東歌あずまうた」の標題のもとに収められた恋歌がある。
   『上野佐野の船橋取り放し親は放くれど我は離るがへ』
 上野かみつけ佐野の船橋を解き放つように、親はあの人との仲をさくけれども、私はどうして離れよう。

 作者不明であるが、7世紀末〜8世紀中頃の東国の歌とされ、奈良時代には既に舟橋は存在したようである。現在、佐野の船橋歌碑ふなはしかひが、群馬県高崎市の指定史跡として残されている。

 この歌詞からもうかがえるように、舟橋は河川の中に船を並べ、その上に板を敷いた造りのため、簡単に設置や撤去が可能である。そのため戦国時代に軍事行動の一環として重用されたと伝わる。

 現在も、千葉県の船橋市、富山県の舟橋村など、舟橋は地名の由来としても残されている。いにしえの時代、「舟橋」は社会に大きな衝撃を与えたものと考えられる。

神通川に架けられていた舟橋とは

 江戸時代には、長さ120間(約218m、舟数:48そう)の「越前の九頭竜川くずりゅうがわ舟橋」、長さ110間(約200m、舟数:48艘)の「盛岡の北上川に架かる新山舟橋しんざんふなばしなど多くの舟橋が架けられていた。

 中でも、「越中の神通川じんつうがわ舟橋」は、舟数:64艘を鉄鎖でつなぎ、その上に板を渡したもので、「越中神通川船橋図」には長さが4丁余り(約436m)とあり、群を抜いた規模と伝わる。

 「越中の神通川舟橋」は、両岸に太さ4尺(約1.21m)、地上部分の長さ1丈5尺(約4.55m)のけやき製の鎖杭くさりぐいを、それぞれ2本立て、太い鉄(1個の長さ:約25cm)2筋を両岸より渡した

 この2筋の鉄鎖を使い、長さ:6間(約11m)、幅:6尺2寸(約1.9m)、深さ:1尺7寸5分(約53cm)の64艘の舟の舳先へさき部分がつながれていた
 舟の上に渡す橋板は、1枚の長さ:5間2尺(約10m)、幅:1尺2寸(約36cm)以上、厚さ:3寸(約10cm)で、当初は3, 4列が敷かれたが、幕末には7列にまで増やされた。

 舟橋の両岸には、管理・維持のため番所が置かれ、安全を保つため、富山藩の費用で、毎年、舟を3艘、橋板6枚を順次新しくした
 また、大水、大雪、流木などによって、舟や橋板が流される危険があるときは、鉄鎖の中央部2カ所の錠前じょうまえを外し、舟橋を切り分けて保護したと伝わる。

写真1 松川に架けられた新「舟橋」の傍に掲げられた「神通川船橋跡」の説明

神通川の舟橋の歴史

 1605年(慶長10年)、加賀藩二代藩主前田利長は藩主を利常に譲り、富山城に隠居した。富山城が改修されて新しい城下が整備されるにあたり、それまで渡し舟であったのを「舟橋」に改めたとされる。
 場所は、「富山県史 通史編3」によると、今の舟橋の位置より、下流側(東側)のいたち川との合流点付近より少し上流との説もある。 

 1639年(寛永16年)、初代富山藩主となった前田利次(前田利常の二男)は、1661年(寛文元年)に、富山城と城下の再整備に着手し、街道の位置を変更して、現在の位置に新しい舟橋を架けた。

 利長の時代の1617年(元和3年)頃の舟橋は32そう、1631年(寛永8年)に52艘、利次の時代の1661年(寛文元年)には64艘と増えた

 1785年(天明5年)、医学修行で諸国を巡遊していた橘南谿たちばな・なんけいが富山を訪れ、日本一の大舟橋とほめ、両岸に設置された鎖杭は奈良大仏殿の柱より太いと驚嘆し、紀行文『東遊記』に収められた。

写真2 松浦守美(1824〜1896)が描いた「神通川 舟橋の図」 株式会社 源 所蔵

 1882年(明治15年12月)、舟橋からの落下事故が多く、管理も困難であったことから、木造橋の「神通橋」(橋長:127間(約231m)、全幅:4間(約7.2m))に架け替えられ、舟橋は撤去された。

 明治期までの神通川は富山市中心部で大きく蛇行し、頻繁に洪水を引き起こしていた。そのため、1901年(明治34年)~1903年(明治36年)、富山県は蛇行区間の西側に水路を建設し、川の流れを直線化する馳越線はせこしせん工事」を進め、神通橋は撤去された。

 現在のような神通川の流れに移行したのは1921年(大正10年)頃である。その後、1930年(昭和5年)~1935年(昭和10年)に、東岩瀬港から富山駅北まで約5kmの富岩運河ふがんうんがが掘られ、その土砂で旧神通川を埋め立て、新市街地の整備が進められた。

 その結果、旧神通川の跡地は、富山県庁、富山市役所などが建ち並び、右岸側の旧川筋約20mが残されて現在の松川となり、1935年(昭和10年)に旧舟橋跡地に新たに橋が架けられた。

図1 馳越線工事の前後における神通川舟橋と富山城の位置

現在の松川に架かる「舟橋」

 1989年(平成元年9月)、富山市の松川に架かる「舟橋」が竣工した。「越中神通船橋」の跡地に架かるとして「船橋」の呼び名が付けられたが、橋長:18m、全幅:15mの鉄筋コンクリート橋である。

 表面は木目調に仕上げられ、橋の中央部両側には舟形のバルコニーが取り付けられた。かって舟橋で用いられていた舟を繋ぐための鉄鎖のモニュメントも設置され、橋の南端には1799年(寛政11年)に舟橋を渡る人々の安全を守るため寄進された常夜燈が置かれた。

 また、工事中に発見された木造橋時代の橋台の石積みが護岸として活用され、照明には明治風のガラス灯が設置され、両端の親柱には舟橋の複製写真が取り付けられている。

写真3 現在の鉄筋コンクリート製の桁橋である「船橋」と常夜灯 

現代の浮橋への展開

 現在、「舟橋」浮橋うきはしと呼ばれて各地に散見される。

 地盤に橋脚を立てて橋桁を支える構造ではなく、浮力を利用して橋桁を支えるため、大深度のダム湖などの軟弱地盤にも影響されずに架橋でき、大幅に工期を短縮できるなどの利点を有している。

 奥多摩湖には、麦山の浮橋むぎやまのうきはし留浦の浮橋とずらのうきはしの2本の浮橋が、ダム建設により水没した対岸との通行のために架けられている。

 「麦山の浮橋」は、全長:約220m、幅:約2mの人道橋で、当初はドラム缶を浮きに使用したことから「ドラム缶橋」とも呼ばれていたが、現在はポリエチレン・発砲スチロールで橋板を支えている。

写真4 奥多摩湖に架かる「麦山の浮橋」 出典:奥多摩観光協会


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