全感覚祭に行った話。
11/18日に川崎市のちどり公園で開催された十三月主催の全感覚祭に行ってきた。
川崎駅からバスに30分ほど揺られ、ありえないほど暗い道を抜けると会場に着いた。20時開演のところ18時30分に到着するという暴挙(時間に余裕を持つのは大事って先生も言ってたし…)に出た言葉置いといて、到着してすぐの感想は寒い!!痛い!暗い!というとてもこれから祭りに乗り込む人間とは思えないほど負の感情満載だった。
入場するとそんな負の感情はなくなり、(嘘です、寒さだけは家に着くまで頭の片隅に居続けた。)こんな辺境の地に仲間の民族がいた!的な何かを感じた。
(アーティストについての感想は長くなりすぎてしまうのでまたの機会に。)
20時から翌8時まで音楽というもに本能的に向き合ったのはこれが初めての経験で自分達ってこんなに自由で、それでいてちっぽけなんだと感じた。普段ライブに行くと俺は無敵、今ならなんでも出来るみたいなスター状態になるが今回はそうではなく、原始時代の人たちもこうやって踊ってたのかな、名前も何も知らない人と身を寄せあって同じ時を過ごすのって冷静に考えるとすごいな、不安とか悩みって必要なものだよな、みんな怖さや弱さを抱えて生きていて、それは大事な感覚できっと無い方が楽だけどある方が豊かで。色々な人と話し、食べて寝て、10日経っても考えはまとまらなかったけれど、この時間は自分にとってはとても大切で決意を固めるには充分な時間であったと思う。
数ある表現者達(出店者や参加者を含む)の叫びの中で、マヒトさんが言った「肝心な時に音楽って全然救ってくれない」という言葉がとても印象的だった。確かに音楽で風邪は治らないし怪我も治らない。ましてや死んでしまった仲間も取り戻すことは出来ない。自分のやっていることが肝心な時に無力であることを自覚しつつもそれでも歌い続ける彼らのように自分はなれるだろうか。実際に自分が死ぬ気で向き合ってきたものに裏切られた時、それでも好きでいられるだろうか。ここで迷わずに頷くことの出来ない自分に失望してしまうことが既に答えなのかもしれない。
多数派や合理性、生産性があるものが正しく、それ以外は間違っているとする誰が決めたかも分からない社会における暗黙のルールによれば今回の全感覚祭を含めて、商業的でないもの、オルタナティヴロックなどは限りなく間違っているものなのかもしれない。だからこそ、というのは変かもしれないがそんな音楽がまだ存在してる間はまだ希望があると思う。怖いのは合理性や生産性に囚われ本当の自分を見失うこと、こういった音楽やモノが存在出来なくなった時では無いだろうか。
そんな時が来ないためにも、僕らは旅を続けなくちゃいけない。
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