自分自身の性別と年齢と容姿の価値

自分の性別と年齢と容姿の価値ってどれくらいなんだろう?と気になった。

先日、2年前の自分の写真をつけて、大したことない内容のツイートをした。

そしたら、いいねが300近くきた。

こんなにいいねが来たのは久しぶりだったので、びっくりした。

と同時に、「やっぱり内容云々じゃなくて、若い女が雰囲気のある写真を投稿すると、みんな見てくれるのかな」と思った。

そういえば、フリーランスになりたくて、ブログやnoteやTwitter中心に発信していた2年前のわたしは、どんな価値があって、フォロワーさんやお金が集まったのだろう。

ストーリー性とか、時代の後押しもあったんだろうけど、やっぱり「若い女」が盛れてる写真を投稿していたのが、少なからず影響しているのだろう。

年齢と性別と容姿のおかげで、集まるものが集まったのだと思う。

年齢も性別も容姿も、わたしの努力で手に入れたものではない。自動的にこうなってるだけのもの。年齢も性別も容姿も、「わたし」のようでいて、「わたし」じゃない。

最近は顔出しせずに、特に尖った意見も言わず、静かに生きていた。だから、年齢も性別も容姿もあまり意識してなかった。

でも久しぶりに顔出しの投稿をしたら「いいね」がたくさんきて、「なにがいいんだろう」って不思議に思ってしまった。

やっぱりわたしはこれまでと同じく、年齢や性別や容姿を出した方が「価値」があるのだろうか。需要があるのだろうか。

年齢や性別や容姿を前面に出すことは、誰かをプラスにできるんだろうか。それとも自分の心を削ってしまうのだろうか。

欅坂46の脱退・卒業のニュースを耳にしたこともあり、容姿を売りにしてる若い女 というジャンルについて、色々考えてしまった。

年齢や性別や容姿って、その人のその人らしさに含まれるのだろうか。

自分は、年齢や性別や容姿を意識しない方が楽で自然に過ごせると思うのだけど、若いこと・女であること・容姿を誉めてくれる人がいること(いたこと)は事実だ。

それらを「自分」として受け止めて、前に出して生きた方が、意外な楽しみやワクワクに出会ったり、するのだろうか。前に出さなくても、隠す必要はないんだろうか。

結婚してから、若い自分、女である自分、容姿を誉められる自分のことは忘れてた。楽だった。

でも結婚するまではずっと、物心ついてからずっと、若いこと、女であること、容姿を誉められることをアイデンティティの中心のように扱ってきた。

だから、これらは、自分の一部ではある。

どれくらい年齢や性別や容姿を取り入れて生きたら、一番自分らしくいられるんだろう。何をもって自分で、何を誉められたら嬉しいのだろう。使えるものは全部使った方がいいんだろうか。

恋愛ばかりして生きてきたから、年齢や性別・容姿の需要を感じると、嬉しさと同時に気持ち悪さも感じてしまう。自分から性格や名前が抜け落ちて、欅坂のMVみたいに、年齢と性別と容姿の雰囲気だけが伝わってしまう人になるのは嫌だな、とも感じる。

何が言いたいのか特に明確なことは無いのだけど。まだまだこじらせてるな自分、と思った。

元アイドルとか、元水商売の人とか、本気で可愛い人は、わたしよりも遥かに「年齢」「性別」「容姿」を受け止めて生きてきたはず。

そういう人は、死ぬまでその辺の役割を自分に感じながら生きてるのだろうか。それとも何かの転換が起きて、年齢や性別や容姿を意識せずに生きられるようになるのだろうか。もちろん人によるだろうけど。

自分はどこまでが自分で、どんなところに他人からの需要があるんだろう。他人からの需要を気にせずに生きればいいんだろうけど、需要があるものを無視するのもなんだか勿体ないし、振り切れられずに生きている。

ああ、自分の盛れた写真がほしくなってきた。これは自撮りやプリクラ文化の弊害か?

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