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お正月だからなんなんだ


日記です。

あけましておめでとうございます。
こんな慣例的な挨拶さえも憚られるようなニュースが続いている今日この頃ですが、皆さんはいくつおもちを食べましたか? 私は全部で6つ食べました。だし汁におもちを放り込んだだけの簡素なお雑煮でしたが、美味しかったです。シンプルイズベスト。お雑煮は引き算。引き算の美学。お雑煮だといいつつ具が何も入っていないというのがミソなわけです。ミソ汁じゃないけどね。

節分の豆は年の数だけ食べるのに対し、正月のおもちは特に数が決まっていないことを考えると、日本人は相当おもちが好きなのだということがわかります。普通に考えたら豆よりおもちのほうが一個のサイズも大きいし、かなりお腹にも溜まるので、数を制限すべきは豆よりもおもちのほうでは、と思わずにはいられませんが、きっと当時もこんな発言をした若者がいたはずで、その記録が特に残されていないことを考えると、おもちを制限するような提案をした者の存在は闇に葬られた可能性が高いです。それほどにみんなおもちが食べたい。食べたすぎるのです。おもちによって消された人々のことを思うと胸が詰まってしまいそうです。おもちだけに。

でも節分の豆は年の数だけ食べるので、それに従ってしまうとお年寄りがおもちを70とか80とか食べなければいけない。1月7日までがお正月としても1週間でその数を食べるのは厳しい、さすがに正月からフードファイトはやっていられないというお年寄りの意見を鑑みて、特に数の制限はせず自由に食べていいということにしたのかもしれません。謎は深まるばかりです。

さて、お正月だからなんなんだという話です。日が沈み夜になりしばらく経つと日が昇り朝になるなんてのはもう言うまでもなく毎日毎日、生まれてから死ぬまで繰り返すわけですが、それが大晦日から元日になった途端に人々は騒ぎ出すのです。日付が変わるのが初めての人なら騒ぐのもわかりますが、それができるのは生まれたての赤ちゃんだけで、赤ちゃんだけがやたら騒ぐ日々が延々と続くのを想像すると楽しそうが4割、大変そうが6割といったところではありますが、それはさておき実際にはいい年の大人たちが率先して騒いでいるわけです。そんな人たちに、あのー、昨日も日付は変わってましたが??? などと話しかければ最後、鼻を殴られて終わりです。

そういうことじゃないんです。人生は短いとはいえ、まあまあ長いわけですね。日常が少しずつ変化しつつも毎日続くわけです。朝起きて夜寝て、毎日毎日、ご飯を食べて排泄をして、毎日毎日毎日、人と話して笑ったり泣いたり好きになったり嫌われたりして、失敗したり成功したり、ビタミンをとったり運動不足を気にしたり、スパムにイラッとしたり、突然顔に飛んでくる虫にびっくりしたり、靴をうまく履けなくて玄関で思いがけずけんけんぱをしてしまったり、知らない子供と目があって気まずくなったり、そんなことを毎日、毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日、我々はやっているわけです。ささいな出来事はあれど、大体おなじような日常を送り続けるのは気が狂うので、イベントは大切なんです。節目をつくることで気分を紛らわせて、諸行無常の世の中を生き抜くエネルギーを補充するのです。

どうして年が明けるとめでたいのかを真剣に考えたことがある人はこの世にほとんどいません。それでいいのです。どうしても考えたい人はYoutubeとかで激論ディベート対決を生配信して気が済むまで考えてみたらよいでしょう。テーマは『なぜ年が明けることはおめでたいのか』。人間が何をどうしようと地球は回るし太陽は昇って沈むので、ただの自然現象をやたらとありがたがる様子はまるでそれを人間の社会活動の功績だと勘違いしているのではないかと思わせるものがあり、地球や太陽からすれば手柄を横取りされているようで不愉快なのではないだろうか……などと議論してみればよい。ちょっと見たい。スパチャでおもちを買って打ち上げで食べればよい。参加したい。ともかく、暦の趣がわからないやつは鼻を殴られて然るべきなのが世の常です。

こんなことを書いている私はわりとお正月が好きです。ごめんなさい、かっこつけてわりととか言いましたが本当はめっちゃ好きです。年越しそばも食べられるし、海老天とか乗せちゃってもみんな贅沢だとか批判せず年末だもんねとニコニコして許してくれるし、除夜の鐘の音も好きだし、初詣のついでに出店で焼きそばとかどんどん焼きとかを買うのも好きだし、それを家でこたつに入りながら食べるのも好きだし、一日中だらだらしててもそういうものとして許されるし、堂々と休めるのが好きです。自由に過ごして良いという大義名分を与えられるのがありがたい、ということですかね。つまり自分は自分の意思で休んだり自由に過ごしたりすることが苦手、というかほぼ出来ない人間だということになりますね。思いがけず己の情けなさを暴露してしまいました。なんて悲しい生き物なのかとため息が出ます。

でもきっとみんなそんな感じですよね。ですよね? ね??

安全圏にいる人たちは日常を送れといいますが、わかっていても自分の無力さや無責任さに嫌気がさして仕方がありません。そしてこれを投稿したあとにはきっと別のことに気を取られてすぐに忘れてしまう。義援金を振り込んで何かやった気になって満足しようと必死です。でも自分の生活が目の前にあるのも事実。頭ではわかっていてもやるせないのは、私が精神的に未熟だからでしょうか。

2024年が皆さまにとってより良い一年になりますように。