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インプットが苦手です

 先日、久しぶりに、一冊の文庫本を読破しました。そもそも本を読むという行為自体がかなり久々だったのに、そのうえ読み終えるだなんて、いったいどうした! と我ながらおどろいています。200ページほどのちょっとした文庫本でしたが、そこそこの達成感で胸がひたひたになりました。

 情けない話なのですが、私は総じてインプットが苦手です。言いかえると、「他者から新たな情報や価値観を得る行為」が苦手です。読書に限らず、映画、ドラマ、アニメ、美術館や博物館、展示会や発表会、対談や講演会など、それらが全体的に苦手なのです。嫌いなわけではないのですが、かなり腰が重くなってしまいます。

 逆にアウトプットは得意なほうです。内容の質はともかく、絵を描いたり文章を書いたりしゃべったりすることには、能動的に取り組めるし、インプットほどのストレスを感じません。しかし、人間一人の脳みそから出てくるものなどたかが知れていますから、アウトプットのためにはインプットが必要です。それなのに、苦手なのです。これはものをうみだす仕事をしている者として、おそろしく重大な欠点です。

 なぜインプットが苦手なのか、自分でもはっきりとした理由がよくわかっていませんでした。比較的長い時間をそのために費やす必要があるから、とか、何かしらの学びを強いられるプレッシャーを感じるから、とか、なんとなく思いつくものは色々あるのですが、これだ! という理由が、自分でもいまいちわからないままでした。

 しかし、このたびの読書によって、長いあいだ闇に包まれていたその問題に、ひとすじの光が差し込んだのです。この気づきを忘れまいと、これまた久々にnoteを書くことにしました。

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 今回読んだのは、外山滋比古先生の『考えるレッスン(だいわ文庫)』です。

 外山先生の本は、とてもやわらかくやさしい文章なのに、するどく本質を突いた内容で、読者のハードルを極限まで下げながらも、深い思考の旅へと連れていってくれるような……知的好奇心と居心地のよさを同時に満たしてくれる、そんな本だと感じています。ゆきとどいた配慮と、聡明さ、そして品のよさがにじみでる外山先生の文章は、恐れ多くも私の目指すところでもあります。なんと、御歳96だそうです。御存命のうちに一度でもお目にかかって、いち読者としての感謝を述べる機会に恵まれたいものです。

 さて、そんな外山先生のやさしいお導きにより、このたび愚かな私でも無事に読破というゴールテープを切ることができたわけですが(買ってから数ヶ月放置していたのは内緒)、この『考えるレッスン』の中では、「創造」についてしばしば言及されていました。そして終盤には、こんな一文がありました。

普通読書を創造的だと考えないのは、文字を読むというのが再現であって創造でないからです。(p.194)

 これは、音楽における一次的創造と二次的創造についての文脈の中で、補足的に登場した一文であり、それほどメインの議題ではありません。楽譜を見て楽器を演奏することは創造ではなく再現であるという話から、その類似例として書かれていたものです。しかし私にとっては、まるでページからそこだけが浮き出ているかのごとく、衝撃的な文章として目に飛び込んできたのです。

 そうか。私はインプットが苦手だと思っていたけれど、そうではなく、苦手なのは「再現」なのか! 目からウロコが100枚くらい落ちたような心地がしました。おかげですこし視力も回復したはずです(していない)。

 外山先生が、この再現という言葉をどういった意図で使ったのか、はっきりと確認することはできませんが、おそらく読書においては、読者は文章をとおして著者の思想にふれることはできるが、そこから新しいものが生み出されるわけではない、という点で、読書は創造ではないと言っているのだろうと考えます。もしその後、読者がその内容に感銘を受けて、そこから自分が感じたことをまた別の文章に書き起こすなどした場合、それは創造になりますが、ただ読んでなるほどと思った時点では再現にとどまります。

 そこで、私は思ったのです。この再現という行為には、「自分以外の誰かの物語を自分の一部として取り込む」といった側面があるのではないかと。他人のものを、自分にとっての正義として、自分の中で再現するのです。ここには多少なりとも編集が入ります。自分にとってちょうどいいように織り交ぜて同化させていくわけですから、ただ入れるだけのインプットよりも、多少は骨が折れそうな感じがしてきます。

 そう考えると、その再現を苦手とする理由が、すこしわかってきました。

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 私自身、他人の価値観にとても影響されやすいのですが、それは自分とそれ以外との適切な距離感がわからないのが大きな原因です。よって、多くの人がいち視聴者として楽しんでいるアニメや小説や映画=他人の物語に、必要以上に没入してしまい、それらによって自分の物語が侵食されてしまうのです。

 フィクションを見ながら、まるで自分もその世界の一員であるかのように感情移入してしまいます。しかし当然ながら、実際には画面の中のキャラクターたちと会話をしたりできるわけでもないので、最終的には「なぜ私はこの世界の中に存在していないのか?」という苦悩で頭がいっぱいになってしまいます。

 するとどうなるのか。現実世界との境界線が曖昧になってしまい、それまでコツコツ積み重ねてきた自分の価値観が、アニメの主人公の渾身の名ゼリフや、頭のいい人が書いたおしゃれな一文や、映画の衝撃的なラストシーンなどによって、あっという間に壊れていってしまうのです。つまり、再現と同時に破壊が生じてしまうのです。そして、そこからまた自分の世界を再構築していく作業がとてつもなくしんどいことを、経験則的に知っているために、そもそもの再現を拒んでしまう……というのが、苦手意識の原因なのではないかと思いついたのです。

 あっ、と思ったとたんに天変地異が起きて、ぜんぶひっくり返ってめちゃくちゃになってしまう。落ち着いた頃にあたりを見渡せば、みごとに焼け野原です。大切にしてきたつもりだったものたちがぜんぶ、引き裂かれて、ぐちゃぐちゃになって、バラバラ死体となってあちこちに転がっているのです。これまでの生き方をまるごと否定されているような気持ちになります。頭の中はもうまっしろです。

 でもよく見ると、そんな焼け野原のはしっこに、小さな芽が出ているのです。それを見つけたら、また懸命に水をやり続けます。そうすると、いつのまにか、これまでとはまったく違った世界が、すこしずつ構築されていくのです。そして新しい世界が成熟されてきた頃に、また天変地異が起きて、最初に戻り、また小さな芽を見つけて水をやり……延々とその繰り返しです。無限ループです。こわいね。

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 つまり私にとって、再現というのは非常に苦しいものであると同時に、とても刺激的であり、他の何にも替えがたい貴重な価値転倒の体験でもあるのです。ほんとうに自分を高めていきたいのであれば、むしろすすんで再現と破壊と再構築を繰り返していくほうがいいことも、わかっているつもりです。

 しかしながら、いかんせん、とんでもなくエネルギーを消費する行為なのです。感覚的には500GBくらい使うので、よっぽど脳内ストレージに空きがないと実行できません。もうほとんど空っぽにしないと厳しいですし、そもそもそんなに容量があるかどうか……。ただでさえストレスや不健康な思考ばかり溜め込んでしまうので、基本的に脳内ストレージは常に圧迫されており、日々削除してはいるものの増殖のスピードに追いつけず、なかなか空きがつくれない……というのが、正直な言い訳です。いい大人が情けないかぎりですが、ほんとうのことなので仕方がありません。

 先日、長年使っているMacのOSを、数年ぶりに最新のものにアップデートしました。ついでにフォルダを整理して、古いものはすべてクラウドに保存し、いらないものは削除し、かなりすっきりしました。おかげで処理スピードも上がり、快適な作業環境が実現しています。こんなふうに人間の脳内も、ワンクリックでアップデート、クラウドまたは外付けHDDで容量拡張、古いファイルは全削除とかできればいいのになあと、つくづく思いました。いずれ実現されるかもしれない未来に思いを馳せながらすすったコーヒーは、やたら苦かったです。そう、まるでじんせいのように……

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 ということで、私はインプットが苦手なのではなく、「再現と破壊の末に強制される再構築」のために割くエネルギーが残っていないだけだった、というのが、今回の読書をとおして得た結論です。もちろん、今回も例外なくそのプロセスをたどり、なんとか新しい世界の基盤ができたので、ようやく文章として外に出すことができました。しんどかったです。

 しかし、できればこの問題は早めに解決したいものです。だって、いつまでも再構築を恐れていては、変化のすくないつまらない人間になってしまいます。ただでさえ中身がなく平凡でつまらない人間である私が、さらにつまらない人間に成り下がってしまっては、ほんとうに生きる意味がなくなってしまいます!!!もう浮上するのは無理でも、せめてこれ以上沈んでいく可能性は、できるだけ早いうちから摘んでおきたいものです。

 解決のためには、いつでも再構築ができるように、常に余裕を持っている必要があります。エネルギーを温存しなければいけません。今はおそらく、日常的にふれる情報が多すぎて、無駄に脳を働かせてすぎているのが、エネルギー不足の大きな原因になっているはずです。多すぎる情報というのは、そう、主にSNSのことです。

 というわけで、これからしばらくは「SNSから距離を置く」という、もはや提唱され尽くした、QOL向上のためにはありきたりすぎる超基本的な方法に、真剣に取り組んでみようと思います。ここでいうSNSとは、主にTwitterのことです。必要な更新はしますが、タイムラインは見ない、トレンドを追わない、ログインは朝晩の2回だけにするなど、接触頻度をできるだけ減らしていくつもりです。

 どんな効果があるのか、そもそもきちんと続けられるのか……また皆さまにご報告できる日がくることを、ほんのり祈っています。