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月の位置は、未だわからない

真夜中、眠れずにひとりピアノを弾いていると、なんだか世界に置いていかれてしまって、本当の本当にひとりぼっちになってしまったような気持ちになりました。一人暮らしをはじめてもうすぐ十年、もともと一人でいるのが好きで、買い物も外食も美術館も、一人でいくのなんかお茶の子さいさい、一人の帰り道で見上げた星空があまりにきれいで、思わず駅から家までの道を走ってしまうほど、一人を楽しんでいる自負はあったのに、突然それがとても怖いことのように思えてならず、どうしようもなくいてもたってもいられず、不安というか寂しさというか、腹から胸にかけて食道のあたりをじわじわと侵食しながら湧き上がってくるこの感情の吐き出し方がわからないまま、深夜にひとり呆然としてしまうことなど、皆さんも経験がありませんか。

どんどんどんどん、世界が遠くなっていくのです。この真っ白な部屋のなかで私が座っている椅子が、この椅子だけが、ぐんぐんぐんぐんと後ろへ下がってゆき、さっきまで目の前にあった木目のピアノや横目に見ていたパイン材の低いテーブルやキッチンやほとんどつけていないテレビや紅茶の茶葉でぱんぱんの引き出しなどが、あっという間に前方の彼方へ遠のいてゆくのです。私は椅子に座ったままどんどん引き離されていくのを、ただただ見ていることしかできません。美しい芸術を見れば見るほど、誰かの活躍を知れば知るほど、素直になればなるほどに、そのスピードはどんどん増していくのです。私が後ろに下がっているのか、他が前に進んでいるのに私が止まっているのか、どちらなのかは定かではありません。なにかに夢中になっていれば、そのことに気がつくことなく、私はただ楽しく愉快に過ごしていられますが、あっ、と気がついたときには、まるで外から誰かのちからがはたらいているかのように、うかつだった私をあざ笑うかのように、とんでもない速さで遠ざけられていくのです。あまりにも速過ぎるスピードに肉体が追いつけず、引きちぎられたこころだけが椅子の上にぽつんと乗っかって、そのままぐんぐん遠ざかっていきます。強風にさらされたこころはばりばりに乾き、穴のあいた肉体は椅子の脚にひっかかって、ずるずるずるずると引きずられ、床を汚します。それは仕方のないことだと、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も、言い聞かせたはずなのです。気がつかぬまま静かに死んでしまう選択もあったはずだと、わかっているのです。でも私は選んでしまったのです。生きることを。そしてぐんぐん遠ざかっていくことに、愛情すら抱きかけたこともあったのです。ですがこうして、誰とも話さず、時計の針だけで太陽と月の位置を知るような日を過ごすとき、忘れかけている私を非難するかのように椅子は速度を増して私のバランスを崩しにかかります。そして思い出した私の目がうつろな色で染まってゆくのを見てほくそ笑むのでしょう。私はせめてもの抵抗に、あの人にもらったマグカップをごしごし洗います。とても乱暴に掃除機をかけます。覚えたてのマイルス・デイビスに酔いしれます。夜をすすんで懐に招き入れます。

しかし、遠く、遠くの惑星では、輝かしい若者の芽吹きと、それを温かく見守るたくさんの自然と、可愛らしく鳴いている小鳥たちが、虹の橋がかかった湖のほとりで、なんと幸せそうに暮らしているのでしょう。そしてかつて私の住むはずだった、赤い屋根のちいさな家では、あのとき私を仲間はずれにしたCちゃんと、あのとき私の絵をみんなの前で馬鹿にしたKちゃんと、あのとき私の作文を勝手に修正したS先生が、明るい人類の未来を祝って、シャンパンで祝杯をあげているのです。しゅわしゅわぱちぱちと泡がはじけ、歌うような笑い声が響くその家に、私は思わず手を伸ばしますが、光より100倍も速く、また200倍も遅いこの椅子から降りないかぎり、私はただただ自分がここに座っていることを見つめ続けることしかできません。他の誰でもなく、私自身がそのことを、黙って見つめるしかないのです。宙ぶらりんになった右手をコピー用紙の端で切って、血が出ました。通りすがりの窓から、ちいさい あき ちいさい あき ちいさい あき みつけた と、季節はずれの童謡が聞こえてきたとき、私は、ああこのまま世界がぐるぐる回って、回って、回り続けて、みんなの後悔や、懺悔や、憎悪などのすべてが、ビッグバンが起こる直前の混沌の渦の中に埋もれて星屑の子供たちと混ざり合って、きらきら輝きながら消えてしまえばいいのにと思います。

◇◇◇

さて、なぜこのような、抽象的でよくわからない文章をとつぜん書いているのかというと、久しぶりに開いたこの本に、とても影響を受けているためです。私は心を動かされたものにすぐ影響されてしまいますが、いかんせん中途半端でいけません。極めれば自分のものになるのでしょうけど、またすぐ別のものに目移りしてしまう。欲張りのくせに飽き性なのです。たちが悪いですね。

ひとりごとはさておき、今回の本は『星座から見た地球』(福永信、新潮社)です。

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ご存知の方も多いと思います。数年前、どこかの書店でこの本を見つけた瞬間、私は一目惚れしてしまいました。ジャケ買いです。装幀は名久井直子さんだとわかり、納得しました。私がジャケ買いする本は、名久井さんの装幀であることが多いです。

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カバーには色々な形の星が描いてあり、それらはよく見ると黄色い線で結ばれ、星座になっています。後ろに見える白い帯は天の川でしょうか。これらの星たちは、ひとつとして同じものがありません。形や大きさ、タッチや線の太さもバラバラです。ぱっと見では星に見えないものもあります。

この不思議な装画の秘密は、138ページ目にありました。

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装画担当、総勢32名。おそらく各々が自由な「星」を描き、それを名久井さんがデザインしたのではないかと予測できます。

さらに、その次のページにはこんなものが。

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カバーの星空と照らし合わせることもできます。遊び心たっぷりで、どこかセンチメンタルでノスタルジックな雰囲気が漂う、名久井さんならではといった装幀です。

また、この装画の楽しみはこれだけではありません。カバーを外して、表紙と裏表紙をよく見てみると……いったい何があるのか。気になる方は実際にこの本を手にとって確かめてみてください。

◇◇◇

私はこの装画が大好きです。惹かれてやみません。不思議な魅力を感じます。でも、うまく形容ができません。かわいい、ではないし、ほっこりする、でもない。おしゃれ、では浅はかすぎるし、センスが良い、はあまりに無責任。今のところもっとも近いところにあるのは、悲しい、です。私にはこの星たちが、真っ暗な宇宙空間にぽっかりと浮かんでいる、ガスや塵などの物質が凝固した結果としての物体という意味での星だとは、到底思えません。イラストなんだから当たり前だろうと言われそうですが、それをデフォルメしたものだとも思えないのです。最初に見たとき、星だ、とは思いましたが、星というより魂に近いなにか、という印象を受けました。そのあと、輪廻、因果、双子のパラドックス、銀河鉄道、空(くう)などの言葉が頭に浮かびました。そしてなんだかとても果てしない気持ちになり、なんだかとんでもない本と出会ってしまったような気持ちになりました。その予想は、本文を読み始めた瞬間に確信に変わりました。私は、この本が最後まで読めませんでした。

とても怖くなってしまったのです。ひとつ隣の世界線に迷い込んだような、知ってはいけないことが書いてあるような、そんな気がしてならず、20ページも読み進めないうちに本を閉じてしまいました。この本には、はっきりとしたことは何も書いてありません。読めば読むほど、ぽろぽろと指の隙間からこぼれ落ちてゆきます。それは私にとって恐ろしい体験でした。例えるとすれば、それはまるで「お前は何者で、どこから来たのか」と、自分とまったく同じ顔をした人物に真正面から問われているような、そんなような恐ろしさでした。試されているような気がするのです。自分の真の価値を問われているような。すべてを見透かされているような。神さまに見られているような。だから、昔のちょっとした思い出が、次々に湧き上がってくるのです。小学校一年生のとき、体育の授業を体調不良で休んで一人だけ教室にいたときに、Sちゃんのお絵かき帳にひどい落書きをして、グラウンドから帰ってきたSちゃんがそれを見て泣いていたのに知らんぷりをしたこと。二年生のとき、給食のごはんがべちゃべちゃであまりに不味くて、落としたふりをしてこっそり床に捨てたこと。三年生のとき、祖父が亡くなったことをクラスの男子にからかわれて、怒ることより空気を読むことを選んでしまい、つられてへらへらしてしまったこと。そんなような思い出が、もうずっと昔にたんすの奥にしまったきりのほこりっぽい思い出ばかりが、次々によみがえってくるのです。

私は長い間、この本と距離を置いていました。でも絶対に手放そうとは考えませんでした。装画が大好きなので、ふと思い立って何度か手にとって眺めたりはしたものの、本を開く勇気はありませんでした。装画を見ているだけであのときの気持ちがよみがえってきます。すでに私の手中にあるのに、絶対に手が届かない。そんな存在でした。本当は読みたくて仕方がなかったのですが、憧れは募れば募るほど、私を臆病にしていきます。

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さて、それではこの辺りでいつものように目次をご紹介したいところですが、この本には目次がないのです。なぜなら必要ないからです。章ごとにも分かれていないし、見出しもありません。本文が最初から最後まで、ひと続きになっています。このことも、私が恐れを感じるひとつの理由になっていると思います。地図に載っていない場所をたった一人で歩いているような気持ちになるのです。スヌーピーが宇宙を彷徨うゲームを思い出しました。無重力空間なので自由自在に動けるのですが、右に進み続けるといつのまにか左から出てきて、上に進み続けるといつのまにか下から出てくるのです。他のステージも含めて、あのゲームは全体的に不気味でした。街へ出たり、キャンプ場や釣り堀にも行けるのですが、ほとんど人が出てこないのです。道路には車が走っていて、バスにも乗れるし、映画館に行ったりもするけれど、外を歩いている人が誰もいない。要所要所に出てくるのは、チャーリー・ブラウンをはじめとする、子供たちです。そしてなぜかみんなひとりぼっちで突っ立っていて、側には誰もいない。たまーに出てくる大人は、みんな胸から上が見えません。スヌーピーの目線で画が作られているので見えないのだと思いますが、大人はみんなイライラしていて、スヌーピーにとても冷たい態度を取ります。ゲーム自体もけっこう難しくて、家族そろって夢中でやっていましたが、幼かった私はよくわからない不気味さをずっと感じていました。私次第でスヌーピーたちの穏やかな世界は壊れてしまうのではないかという、恐怖と物悲しさ、儚さが混在した複雑な感情を抱いていました。『ゆめにっき』にちょっと似ているかもしれません。話が逸れましたが、この「私次第でどうにでもなる」という点が、この『星座から見た地球』にも共通しています。それまで、本には必ず目的があって、決められたストーリーがあって、読者はそれをなぞっていくものだと思っていた私は、自分次第でこの本がどうにでもなるということに気付き、ショックを受けてしまったのです。なぜなら、一見するとファンタジックなふうにも見えるこの本を、私は絶対に悲しい本にしてしまうと直感したからです。「お前は何者で、どこから来たのか」という問いから必死で逃げてしまったのです。なぜなら、自分は無価値な存在だと思っていた当時の私には、責められているようにしか聞こえなかったからです。この本は、読者の本当の姿がそのまま投影される、真実の鏡のような本です。

最後にこの本を触ってからしばらくの時が経ち、noteを始め、次に取り上げる本をどうしようか考えていたときに、ふとこの本のことを思い出しました。相変わらず勇気が要りましたが、思い切って開いてみました。もう私はあのときの私ではないのだと証明したかったのかもしれません。でも、やっぱり、読めませんでした。でも、noteで取り上げようと思いました。読むという行為以外でも、この本と向き合う方法があるかもしれないと思ったのです。例えば上記のように、この本とのストーリーを語ることや、冒頭のように、抽象的なフィルターをもって自分の中身を覗いてみることです。言葉とは不確実で不安定なものです。誰かに月の場所を教えるために指をさしても、月の場所がわかってしまえば、指の存在は忘れられます。言葉はこの指のようなもので、人によっては指の代わりに木の棒を使ったり、はたまた図を書いたりするのでしょう。人それぞれに適した方法はあれど、それらはすべて方法に過ぎないのであって、目的はあくまで月を見つけることです。指をじっと見つめて、これが月だと思う人はいないでしょう。とにかく月を見つけるためには、色々な方法を試していくしかないのです。抽象的というより、イメージを注視すると言った方が正しいかもしれません。言葉が不確実ならば、その先にあるイメージを見つめてみるのです。さらにその先、その先と進み続ければ、言語や概念や相対性が生まれる前のところにきっと辿り着くのでしょう。言語はもともと抽象化されたイメージの群だと思うので、その向こうになにかしらの景色が見えてくるのは、自然なことですね。限られた枠の中に、つながった点と点がいくつかあって、それらのまとまりが文字であると考えると、おや、まるで星座のようです。

◇◇◇

さて、いつも本を取り上げる際には、本文の一部を引用しご紹介していますが、この本に関してはとても本文には触れられませんので、代わりに帯に書いてある文章を以下に引用し、結びとさせていただきたく思います。

ところは地球。季節は四季。ときは朝から晩まで。
いろんな時間がでてくる小説です。
小さなおはなしのくりかえしが、
二度とくりかえされない出来事を呼び寄せています。
子供らがかけよってきます。つられて夜がやってきます。
あっという間に日がのぼってきて、
子供らはまたかけだして、すべってころんで、
お母さんがかけつけてくれます。
主人公がたくさんいます。数えきれないほどです。
小学生にも見えるし、幼稚園児みたいにも思えます。
もっと小さいかもしれません。
いずれにせよ読者より小さい人たちです。でも、
うかうかしていると追い越されるかもしれません。
すばしっこいのです。
どうも読点が見当たりません。だから、
リズムは自分で刻んでいきます。呼吸のように。
カギカッコもありません。
そのくせおしゃべりだったりします。
名前がないのにはちょっとびっくりします。
たりないようで、すべてが満たされているようです。
数えられないのに、全員そろっているようです。
この小説には、
数え切れないほどの感情がまたたいているのです。

ああ、この感じです。この感じ。私はもうすでに胸のあたりがざわざわしています。この帯の文章だけでも、私の言いたかったことがすこし、伝わるのではないでしょうか。

最後までお読みいただきありがとうございました。



◆ 今回の本 ◆

『星座から見た地球』

 著者 :福永信
 発行者:佐藤隆信
 発行所:株式会社新潮社
 印刷 :大日本印刷株式会社
 製本所:加藤製本株式会社
 装幀 :名久井直子
 
 2010年6月30日 第1刷発行

◎著者プロフィール
福永信(ふくながしん)
1972年、東京生まれ。著者に『アクロバット前夜』(2001/新装版『アクロバット前夜 90°』2009)、『コップとコッペパンとペン』(2007)、村瀬恭子との共著に『あっぷあっぷ』(2004)がある。