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仕事ができたうえに仁者をめざしたい

(書き下し文)
孟(もう)武(ぶ)伯(はく)問(と)う、子路(しろ)は仁(じん)なるか。子(し)曰(いわ)く、知(し)らざるなり。又(また)た問(と)う。子(し)曰(いわ)く、由(ゆう)や、千(せん)乗(じょう)の国(くに)、其(そ)の賦(ふ)を治(おさ)めしむ可(べ)きなり。其(そ)の仁(じん)を知(し)らざるなり。求(きゅう)や何如(いかん)。子(し)曰(いわ)く、求(きゅう)や、千室(せんしつ)の邑(ゆう)、百乗(ひゃくじょう)の家(いえ)、之(これ)が宰(さい)たらしむ可(べ)きなり。其(そ)の仁(じん)を知(し)らざるなり。赤(せき)や何如(いかん)。子(し)曰(いわ)く、赤(せき)や、束帯(そくたい)して朝(ちょう)に立(た)ち、賓客(ひんかく)と言(い)わしむ可(べ)きなり。其(そ)の仁(じん)を知(し)らざるなり。

(現代語訳)
孟(もう)武(ぶ)伯(はく)が子路(しろ)のことを「仁者(じんしゃ)ですか。」とたずねたのに対して、孔子が「存じません。」と答えたので、さらに押し返して質問したところ、孔子が申すよう、「由(ゆう)は大(だい)諸侯(しょこう)の国の政治を扱(あつか)わせ得(う)るだけの腕前(うでまえ)がありますが、仁かどうかは存じません。」「それでは求(きゅう)(冉有(ぜんゆう))はどうですか。」「求は大都会の市長や大(たい)夫(ふ)の家の執(しつ)事(じ)がつとまりますが、仁かどうかは存じません。」「赤(せき)はどうですか。」「赤は衣(い)冠(かん)束帯(そくたい)で朝廷に立ち外国のお客様と応接させることはできますが、仁かどうかは存じません。」

(学びと戒め)
『高みを目指す。』と現代の人が聞けば、その意味をどう捉えるだろうか。
立場やステータスの事を頭に思い浮かべる人が多いのではないだろうか。
それは他者の視点に立った物の見方であるから、都市化(情報化)に侵された脳の状態であるといえる。
渋沢栄一氏の著書でたびたび出てくる『克己心』というキーワードがありますが、これはまさに自分との対話から出る発想であると思います。
こうした視点を持つことが出来れば、各々が本当の意味で自己を高めるという事になると思います。
今朝、散歩中に小さいカマキリを見つけました。
虫を触る事が苦手だと勘違いしている私が、恐怖心をぬぐい、カマキリを手に乗せ、歩かせてみました。よちよち歩きで微笑ましかった。
恐怖の対象が触れてみるという実体験を経て、可愛いへと変容しました。
この小さな出来事も、一つ私の中の高みへ到達したと嬉しく思っています。

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