明日、私は舞台へ行く

明日というか今日だけれども。
不要不急って、なんだろうなって本当に思う。
私がどれだけ舞台に、娯楽に支えられているか、それは私が一番よく知っている。

私は、今はちょっとタイムリーすぎてセンシティブな話だけれども、ずっと生きているのが嫌だった。

楽しいことしかしたくないのは、楽しいで誤魔化していないと生きていけないからだ。
皆しんどい、皆楽しいだけじゃない、そう皆言う。
私は、じゃあなんで生きてるのとその度に尋ねる。
生きているからだと、そう皆言う。
じゃあ、死ねば良いじゃないか。私はいつもそう思う。

人はいつか死ぬ。
遅かれ早かれ、老衰であろうと事故であろうと、死ぬと言う事実は変わらない。
そして老衰だけはマジで嫌だ。
人の世話になるのは絶対に嫌だ。
老いへの強い恐怖がまた私を早く死にたいという思考に結びつける一端となっている。
そして、死ぬタイミングを選ぶことは、この国では今のところ許されてない。
なら、私はそのタイミングを選びたいと常々思っている。
家を引き払って、身辺整理の上で、綺麗に死にたい。
その願いは許されないものだ。
なんで許されないのかと言うと、悲しむ人がいるからだ。
私は、誰にも悲しんで欲しく無い。
だから、人知れずそっと居なくなりたい。
「そう言えば最近見ないね」
くらいで私は充分だ。家族にも友人にも私の死を嘆いて欲しく無いし、嘆かれるほどの価値もない捻くれていて、悲観的で、ズボラでどうしようも無い人間だからだ。

この考えは高校生の時に、同級生が亡くなった事に起因している。
元からほぼ学校に来ておらず、座席があるだけで会ったこともないようなクラスメイトが亡くなった。
それでも、クラス中は重い雰囲気で、昔からの知り合いでも何でもない人が大勢泣いていた。
正直かなり衝撃だった。
幼い頃から親からお前は人の心がないと言われて生きてきた私は、この時はっきりと、あっ私はマジでサイコパスなのかも知れないと思った。
涙もろいので多分違うと信じたい。
話はそれたが、「人の死」というのはそれだけ衝撃をもたらすものなのだと私は本当にびっくりした。

2度目の死との遭遇は、職場だ。
過労死者が職場で出て、私は第一発見者だった。
語彙力がなくて申し訳ないが、驚くほど冷たくなった人に初めて触れた。
責任者がタラタラと電話をしており、一事務員にすぎなかった私は倒れてる医務室と責任者の部屋を2度ほど往復し、やっと電話中の責任者に声を荒げた。
奇しくもその日は給料の締め日で、私はやることが溢れていた。警察からの事情聴取を受け、日付が変わる間際まで、人が亡くなった社内で働いていた。
私にストーカー気質の友人が職場を教えていないのに来てくれて、本当に助かった。
そしてそれでも、私はそのクソ責任者の下で働いていた。
一年後には正社員になるという約束をしてもらっていたのもある。
けれども改善されない職場、しわ寄せ、色んなものが重なって、本当にギリギリな中で働いていた。

その時、私が出会ったのが「おそ松さん on Stage」という舞台だ。
元々おそ松さんは見ていて、さらにその時気になっていた俳優さんも出るとなって、チケットを取ろうとした。
取れなかった。
けれどもその後、親切な人がチケット復活してるよ!とツイートしているのを見かけてチケットをなんとかもぎ取った。
すごく、本当に、すごく楽しかった。
楽しくて面白くてゲラゲラと笑い、私は連日通いまくった。
そして、正社員の約束も何もかもを蹴って『生きよう』そして、生きるためには『辞めよう』と思った。
ずっと、確か小学生の頃から40で死のうと思っていた。
その考えが覆った瞬間だった。
女性の平均寿命の半分も生きたら、もう良いよね、という短絡的な数字であまり意味はない。
好きなものを否定され、人の心がないと言われ、ずっと自分の存在意義を持てず、初めて能動的に、生きるために動いた瞬間だった。

私にとって、推しとは、舞台とは、そういう存在だ。
これは、『不要不急』なのだろうか。
ないと死んでしまうほど、娯楽に依存するなと言われたらそれまでだ。
でも、それなら私を法で早く殺してくれとしか言いようがない。
本当に昔から生きていたくないのだ。
生きることはあまりにもこわい。そして、面倒くさい。
老いるのもこわい、
人を悲しませるのもこわい、
加害者となり人を傷付けるのもこわい、
楽しいことが終わるのもこわい、
突然死で片付いてない部屋を見られるのがこわい、
炊事洗濯家事仕事、生きること全てが面倒くさい、

私の感性ははっきり言って生きるのに微塵も向いてない。八方塞がりだと思う。

その恐怖を忘れ、面倒くさいこと全てやる力の源が、私にとっては娯楽であり、推しであり、舞台だ。

舞台へ行くために、舞台コンセプトと合うような新しい服を買って、無駄毛の処理をして、新しい化粧品を買って、ヘアケアをして、スキンケアをして、新しいネイルを塗って、髪を巻いた。
これらは全て普段はやらないことだ。
けれども舞台のことを考え、準備するとワクワクしてそれだけで楽しくてたまらないのだ。
そもそも、オシャレというか、人並みに小綺麗にしようと思えたのも、推しのおかげだ。

生きていれば何とかなる、とはよくいう言葉だが、明日生きてる保証を何処から得てるのか、私にはよくわからない。
もしかしたら私が知らないだけで、皆は「明日を生きる許可書」でも配布されてるのかも知れない。
目を閉じて、眠る時にはこのまま明日起きなかったらどうしようと私は定期的に思う。
今はロフトベッドなので、水分が抜け落ちても賃貸マンションの床はあまり汚れなくて済むかな、でも大きなテレビが壊れるのは勿体無いな、クーラー付けっぱなしだから発見は遅れるかな。
週に一回はそんな事を考えている。

さて。娯楽は、不要不急だろうか。

ここまで私の恐怖心の強さを綴ったので伝わると思いたいが、もちろん新型コロナウイルスが怖くないわけではない。
考えると吐きそうになるし、喫煙所は早く封鎖しろといつも思うしマスクをしてない人はどうしてなのかと問い詰めたくなる。

私が公演が行われることが決まって早々に「それでも私は絶対に行く」と何度も言ったのは、有言実行するしかないという背水根性でしかない。
そしてその時期には、もちろん感染者はこんなに増えてなかったし、外出を控えてくれなんて指示も無かった。
外出をする私は、反社会的人間とみなされて殺されるのかも知れないとすら思う(今でこそ都会に住んでいるが、田舎生まれ田舎育ちなので、従わないことへの恐怖心も強い)

行かない理由、諦める理由、あげればきりがない。
行かない方が社会的な貢献も果たせる。
経済的にだって、きっと別の方法があるだろうとは思う。

それでも、私は明日、舞台へ行く。
私が生きるためのエゴでしかないけれども。
最悪仕事を辞める事になるかも知れないけれども。


それでも、私は明日、舞台へ行く。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?