マガジンのカバー画像

オタクよもやま話

10
鉄道オタクとして数年過ごした上で感じた「なまもの」趣味の危うさを書き記します
運営しているクリエイター

記事一覧

自分が本当に距離を置きたかったもの

今でもあの4文字をネットで見かけるだけで感情が噴き出しそうになる。頭では分かっている「現実」と、ずっと見続けている「望郷」の念と、その2者が決してわかり合うこともなく胃の中を反芻していくのだ。 一文字打つだけで予測変換に飛び出すその4文字を、ふと目にすることがここまで苦しくなってしまった。「それ」を惜しむ声を見つけると、抑え込んでいた感情がわき上がり無性に苦しくなっていく。 では見なければ良い、それはその通りである。 「それ」と距離が置ければどれだけよかったことか。幸いな

鉄オタのために「しか」走らなくなった路線に、インフラとしての命は宿っているのか?という問題である 存廃論については原則存続派の自分でさえ、ここについては「鉄道路線の"尊厳"重視」という視点から懸念せざるを得ない。 「しか」の閾値は一日一桁線区〜50人弱線区です

例えば「推しのトーク力が低い」に「アイドルやめろ」と繋がるのが嫌いな批評で、「トーク力あげるためにこんなことできそうだね」が好きな批評です ツイッターは前者のウケがとても良いのだ。怒りのエネルギーが強いから

県の威信を保ちたい人とスタンプ台紙の空白を埋めたいだけの人々によって維持される路線は、なんというか「成仏」して欲しいな……と思えてきてしまった

アレだな 「親が高齢になったら極力早く○○して頂きたい」という思想に傾倒しているオタが多いのと無関係ではない、と思えてくる 「生きてて欲しい」という感情の軽視。

ツイッターの鉄オタ界隈って都市圏マウントとアンチお気持ちが悪魔合体して好きなものを貶しまくる怪物と化してるのが良く分かるわ 「お気持ちだからなんだよ!」と言えるツイッタラーは居ないに等しい(お気持ちと揶揄される彼女らさえ、自分達はお気持ちしてないと勘違いしている)

よもやま話1

疫病と趣味の都合からある政治傾向に親和的になりつつあったが、急進派に取り込まれると「地方ローカル線は消えろ!」という暴論にぶち当たる確率が急上昇することに気付いた。 何かしらの傾向があるよな、と思ったとき、政治傾向そのものが「地方ローカル線にたいへん厳しい」ことが判明した。 (ローカル線だけならまだしも、地方そのものの滅亡を厭わないコメントも散見されるのが「無理」だった) だからといってその真逆はそれはそれで「受け入れがたい」のだが。 自分の想像力が決定的に欠けていたのだ

公共事業なのに黒字にならないと潰れてしまう国、ニッポン

昨今、ローカル線が廃止になりそうだという話で持ちきりである。 そもそも何故、公共交通に利益が求められなければならないのか公共交通にそもそも独立採算性を求める論調が多く、その点に疑問を持った。 調べると、意地悪で発言しているわけではなく、制度上事業者や路線ごとに利益を出すことを強いる制度がこの世に存在するようだ。 あの国鉄様すらも独立採算性ありきの存在だったそうだ。 地方公営企業法そして、その最大の理由は「地方公営企業法」にあると判明した。 この法律により、公共のためにでき

鉄道オタクをやめようと思う(Twitterから離れた話)2

前回書いた「旅行趣味を辞めたいと思った理由」をここで再度おさらいする。 念のため言っておくが、鉄道への熱が冷めたわけではない。 鉄道趣味が「偏執故の激烈な知的好奇心」ではなく、「SNSで数値化される”いいね!”が齎す激烈な承認欲求」の娯楽に成り下がったこと 自分の好んでいる車両/路線/駅/会社以外のものが消滅可能性を帯びたとき、為政者目線で(=利用者目線の介在無しに)切り捨てる人があまりにも多いこと 鉄道……ひいては交通そのものやそこに住まう人々の暮らしを観察する趣味

鉄道オタクをやめようと思う(Twitterから離れた話)1

本題は2から始まります。これは意思表明です。 鉄道オタクとして過ごして6年、擬人化にハマってから5年。 先日ふと、こう思った。 鉄オタやめたい。しかし鉄道への愛は減るどころか増えるばかり。 その後数日間考え込み、Twitterにある意見の偏りを知覚し、寝る間も惜しんで思案に励んだ結果、1つの結論に至った。 SNSで鉄道の話を控えるのが先というわけで、「鉄道オタク=交通オタク」≒「Twitter(あるいは匿名掲示板)上にいる旅行趣味クラスタ」から距離を置こうと思っている。