雨の夜と缶ビール
雨はきらいだ。
癖っ毛がうねうねと自我を出し始めるし、ベランダに干したばかりの洗濯物を慌てて取り込まなくてはならないし、出先で買ったビニール傘が玄関に増えていくのも自分のだらしなさの可視化みたいでいやだ。着る服の選択肢も減るし、履く靴も決まってくるし、雨にいいことなんて一ミリもない。
……いや、いや、それは言いすぎた。実はそこまでは思ってはいなくって。
夜に静かに降る雨は結構好きだったりする。特にこの季節の夜の雨。
風呂あがり、部屋着のワンピースを身にまとい、洗い髪を途中まで乾かして飽きて、冷蔵庫を物色してちょっとだけ悩んだあと、軽快な音をたてて缶ビールを空ける。
それから寝室の電気を落として、ベッドサイドのちいさなランプだけをつけて、ベッドに腰をおろす。
雨の降る夜は静かだ。そもそも家の周辺は夜になるとしんと静まり返る街なのだが、雨の夜は特にそうだ。ただしとしとと雨粒が落ちていく音だけが部屋を満たす。
普段は音楽やラジオをかけたりしているのだが、こんな夜は雨の音だけを聴いていたい。
気が狂いそうになるくらいうるさい繁華街も、都会の喧騒も好きだけれど、夜はやっぱり静かな方が良い。
夜に何か考えごとをしてもろくな結論は出ない。弱り切っているときは呪詛のような愚痴となみだと得体の知れない不安に襲われるし、逆に調子のいいときはたいてい猪のように突っ走ってしまう。
だから、夜には何も考えないのがいちばんなのだ。
何も考えない、がいちばん苦手だ。
むかし、仕事でメンタルをやられて駆け込んだ心療内科の先生に、あなたはもう少し「まぁええか」を大切にしなさいと言われた。人生、思い悩んでもどうにもならないことはあるし、自分の力でできることはたかが知れているのだから、起きた事象に対して「まぁええか」と諦めて流れに身を任せることも大事なのよ。
そうは言われましても……とは思ったが、さすがはプロが見抜いた通り、たしかに私は「まぁええか」が言えない人間だった。
日々の生活だとか、そういう些細なことはある程度「まぁええか」で終わらせられる。
ただ、仕事とか人付き合いとか恋愛とか、人生の根幹にかかわるようなことを考え出すと止まらなくなって、自分の選択がほんとうに正しいのかという答えのない問いをずっと繰り返してしまう。
そこで、「まぁええか」の登場である。
どうせ、人生は死ぬまでの暇つぶしなのだし、死ぬこと以外かすり傷なのだし、やりたいことをやれるときにやるしかないのだし、どう足掻いたって歳はとっていくものだし。
まぁええか。
今回の選択が間違っていたとしても、一億年と二千年後に振り返って「別によかったんじゃね?」と思えれば、そう思えるようにこれからしていけば、それで、ええか。
そう思えるようになったのは、まぁええか……いや、全然ええことあらへんわ! と自分の人生の岐路に立ち、悩みに悩んで暴れ散らかした2023年があったからであって、暴れた拍子にうっかり自分でつけた心の傷がいまだに癒えてなかったりする。なんなら化膿してる部分もある。
それでも、まぁええか、なのである。
自分でつけた傷を後生大事に撫でて、たまに瘡蓋を引っ剥がしてひいひい言っている。そんな人生も丸ごと抱きしめてやればええか。
まぁええか、はポジティブな諦めだと思っている。
考えても仕方のないことをぐだぐだ考えないように、Ctrl+Alt+Delで強制シャットダウン。私の場合はそのコマンドが缶ビールを空ける音なのかもしれない。
ぼんやり雨の音を聴きながら、あえて窓を開けてみたりして、ちびちびと酒を飲む。
冷えた外気が湿気とともに部屋に入り込み、のぼせたからだを心地よく鎮めていく。
仕事のことも、プライベートのあれこれも、すべて忘れてただただ雨音に身を委ねる。目を閉じて、雨を全身に浴びている自分を想像して、「ショーシャンクの空に」の有名なシーンを連想して、そこまで土砂降りじゃないけどな、と吹き出す。
それでリセット完了。
時間に追われて生き急ぐザ・現代社会人らしい生活の中で、自分を取り戻すための大切な習慣。
ちょっとだけご機嫌になれるほどのアルコールに頬を染めて、窓を閉めたら夢の中へ。
そうやって私たちは日々を紡いでいく。
まぁええか、を繰り返しながら。
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