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もしも

自分が死んでしまったら、彼はどうするんだろう?
どう思うだろう?泣いてくれるだろうか。

ユヅキは夕方の街の中、ひとり俯いたままぼんやりと歩いていた。すれ違う人達は楽しそうに笑い何かに希望を抱きながら前に進んで行く。自分を待ち受けていた現実を思い出すと、ユヅキはまるで自分だけが別の世界に居て、前に進めずにただ暗闇の中を彷徨っているような気分になった。

私…何もかも終わりなのかな…。

ふと顔を上げてみると、ビルとビルの合間に見える空が赤く染まっていた。あまりにも綺麗な夕暮れと、自分の絶望してしまった気持ちとの兼ね合いがうまくいかない。ユヅキは特に何を思う訳でもなく、自然と足は近くのビルへと進んで行った。

階段を昇っていくと、屋上へと出れるドアに辿り着く。ドアノブを回してみると、ドアは簡単に開いた。ユヅキは屋上に出てみる。そこからは今までに見たことがないような夕焼けが見えた。
「綺麗だな…。」
ユヅキはそのまま、フラフラと鉄柵まで歩いて行った。とても綺麗すぎる、夕焼けに惹かれて。鉄柵に手をかけたユヅキはふと、真下を見下ろしてみた。10階の屋上。
「…そっか、ここから飛び降りたら死ねるよね…。」
ここから飛び降りたら、そう思ったユヅキは想像してみた。自分が今、ここから飛び降りたとしたら。真下にはコンクリートの駐車場が広がっていた。飛び降りられたならば。
「痛いかな…苦しいかな…でも、一瞬だよね。一瞬、我慢すれば…。」
そう思いながらも、いざ鉄柵を越えようとすると足がすくんだ。体験したことのない恐怖が、ユヅキを襲っていた。

死ぬのなんて、一瞬のことなのに…。

「どうしたの?死ぬんじゃないの?」
突然、ユヅキの背後から声が聞こえた。ユヅキは驚いて振り返ると、そこにはひとりの女性が立っている。いつから居たのかユヅキは全く気付かなかった。その女性は嘲笑するような笑顔でユヅキの元に歩いてくる。
「その柵を越えて飛び降りれば、すぐ死ねるのに。何を躊躇しているの?」
女性は鉄柵に手を置くと下の駐車場を見下ろした。夕方過ぎ、駐車場は完全に表通りから死角になっている。
「現実なんてそんなもの。いくら辛いことがあって『死にたい、死のう』って思っても、いざその場になってみれば、みんな恐くて死ねないのよ。所詮、死にたい気持ちなんてどうせその程度なんだから。」
「そんなこと…そんなことない。私は死にたいの、本気で!だって、もう現実に幸せなんて残ってない…私には彼が全てだったんだから。彼がいない世界なんて…意味ないもの…。」
ユヅキは俯いて必死に声を出した。そう、この世の中に幸せなんてもう残っていないのだから。
「…ねえ。あなた、両親はいる?友達は?その彼ひとりに対して、その他の全てを捨ててしまえるほど、そんなにその彼はあなたにとって大切なの?ほんの一時の失望に惑わされていない?」
ユヅキの頭の中に思い浮かんだ。優しい両親と大好きな友達の姿が。それを全て捨ててしまえるほど…私にとって彼はそこまで大切なんだろうか。
「…それでも、私はもう生きているのが嫌なの。死にたい…何もかも、どうでもいい。死にたい。」

私が死んでしまったら、彼はどうするんだろう?
どう思うだろう?泣いてくれるだろうか。

「でも恐いんでしょ?死ぬのが恐いんじゃなくて、あなたは後悔するんじゃないか、って思うと恐いのよ。だって、一度死んだら全て終わり。やっぱり間違いだった、と思ったとしても戻れない。死んで本当に楽になれると思う?もしも、死んだほうが辛かったらどうするの?それでも、あなたはまだ死にたいと思うの?」
女性がそう言うと、俯いて黙り込んだユヅキが小さな声で、
「…でも、死にたい…。」
と呟いた。

秋の風は冷たく吹いている。夕陽は沈んで、辺りは暗くなってきていた。
「これをあげる。」
女性の声にユヅキが顔をあげると、目に前に差し伸べられた手の平には薬のシートがあった。
「…え?毒…?」
「違う。これはね、『疑死薬』よ。」
「疑死薬…?」
女性は沈んでしまった夕陽に目をやりながら答えた。
「この薬は『擬死体験』が出来る。死ぬ瞬間を体験できるの。あなたが死ぬことが恐くて死ねないって言うなら、この薬を飲んで擬死体験してみるといいわ。『死ぬこと』がどんなことなのか、その身を持って分かるはずだから。」
ユヅキは女性から青い錠剤の入った薬のシートを受け取った。
「でも…あなたはいらないの…?」
ユヅキがそう尋ねると、女性は
「私はもう、その薬で何度も死んだの。だから、いいのよ。」
そう言って微笑んだ。

家に着いたユヅキは、自分の部屋に篭ったまま女性から貰った青い錠剤のシートを手にしていた。
本当に、これで『擬死体験』が出来るんだろうか、女性は言っていた。死ぬことがどんなことなのか、身を持って分かる、と。ユヅキはシートから1錠、手の平に出した。

死ぬ瞬間を、体験するだけ…。

そう決心したユヅキは錠剤を口に入れ、それを奥歯で噛み砕いた。苦味を感じた直後に、自分の身の回りだけ時間が止まってしまったような、妙な感覚を覚えた。そして、その後ユヅキは激しい違和感を覚えるのと同時に有り得ない光景を見る。そこには、自分の部屋でロープを首にかけて、台から降りようとする自分が居た。

私、死のうとしてる?

そして次の瞬間、ユヅキは台から足を下ろして、ロープは一気に首を締め付けて全ての体重が喉にかかった。顔の血液が全て締まるロープに止められて、まるで顔が破裂しそうになる。喉に食い込むロープのせいで咳が出そうになりながらも、息が出来ずにもがき、声にならない呻き声を上げた。両手が自然とロープを外そうと首元にかかるが、次の瞬間、目の前の視界が白黒のテレビの砂嵐の映像のような光景になり、力は抜けていった。ユヅキは手足を痙攣させ大きな動きで揺れながら、鼻血と涎を垂らす。下半身からは失禁をして、舌をだらしなく出したまま、やっとそのまま息絶えた。眼球は大きく飛び出しそうに白目を剥いて白濁した涙を流している。首から上だけが青紫色になり、元のユヅキの顔を想像出来ないような、悲惨な死に顔が残っていた。

これが…私?こんな死に方…こんな最後…嫌だ!!

そう思った直後、部屋の中で座り込んでいる自分に気付いた。
「夢?じゃない…今のが、擬死体験…?」
ユヅキは呆然としながら、直前に見た自分の死に様を思い出して頭を抱えて目を閉じた。

あんな思いをして、あんな風に死ぬなんて嫌だ…!

次の日、ユヅキはあのビルの屋上へと向かった。青い錠剤をくれた女性と会った、あのビルへ。
屋上へ辿り着くと、そこには鉄柵にもたれ掛かった女性がまるでユヅキを待っていたように佇んでいた。
「来ると思ってた。どう?その薬。試してみたんでしょう?」
ユヅキは何か言おうとしたけれど、言葉が出なかった。そんなユヅキを見て女性は言う。
「その様子だと、相当酷い死に様を見たみたいね。ねえ、死ぬのなんて嫌になったんじゃない?」
「…違う。死ぬ方法が、間違ってただけ。もっと、一瞬で死ぬ方法を選べば…。」
ユヅキが俯いて言うと
「ふうん?じゃあ、一瞬で死ねる方法を試せばいい。例えば、ここから飛び降り、なんてどう?」
そう言って女性はビルの真下を見下ろした。コンクリートの駐車場には人はいない。
ユヅキは薬のシートを取り出して、1錠手の平に出した。

一瞬…一瞬だけなんだから…。

ユヅキは女性の見守る前で錠剤を口に入れた。噛み砕いた瞬間、また前回と同じように自分の身の回りだけの時間が止まってしまうような、不自然な感覚が襲う。そして、見えた。自分が屋上の鉄柵を乗り越えようとしている姿が。

また…私、死のうとしてる…。

鉄柵を乗り越えたユヅキは迷うことなく、そのまま真下に向かって倒れるように飛び降りた。思わずユヅキは目を逸らす。そして次の瞬間、大きな打撃音が鳴り響いた。ユヅキは目を開けてその光景を目にすると息を飲んだ。ユヅキは、まだ微かに生きていた。細い指先が細かく痙攣している。頭蓋骨が割れ、中身の様子が血まみれになって見てとれた。そして両脚の関節は逆に曲がり、腰が不自然な形に曲がっている。鼻から脳髄が出て、顔の一部は滅茶苦茶に潰れていた。それでも最後の力が残っているかのように、何かを必死に言おうと口をパクパクとさせている自分が居た。微かに空気が漏れながら飛び降りたユヅキの声に耳を傾けると「…イ…タイ…」と発していた。そして数秒後、大量の体液を口から吐き出した後に、ピクリとも動かなくなった。

どうして…一瞬じゃないの?こんなの…嫌だ!!

そう思った直後、屋上で座り込んでいる自分が居た。
「今のが…飛び降り自殺の死に方?」
呆然とするユヅキを見て、女性は言った。
「どう?死ぬ難しさが分かる?」
「…死ぬ難しさ…?」
女性は屋上から見える街の風景に視線をやりながら言った。
「あなたがどうして死にたいのかは私には分からない。けど、本当に現実に絶望して死にたいならば、死に方を選ぶなんて余裕はあるはずがないの。『楽に』とか『痛くなく』とか、そんなことを考えているのは、それだけ生きる余裕があるって証拠だから。」
「生きる余裕…でも私は…。」
「死んで、何の確証もない楽を手に入れることよりも、生きながら幸せになる方法を考えるほうがいいんじゃない?あなたが絶望しているものは、あなたの全てを終わらせるほどの価値が本当にあるの?まだ、現実はプラスが待っているんじゃない?」


ユヅキはひとり、俯いて歩いていた。女性の言った、「まだ現実はプラスが待っている」という言葉を考える。
何もかもに絶望した私にも、本当はまだ笑っていけることがあるのかもしれないと。
そして「死ぬ難しさ」も。きっと、本当に死ぬつもりの人間はわざわざ「擬死体験」なんて必要ないんだろう。私は何もかもを終わらせたい訳ではなくて、何もかもを一度だけ白紙に戻したいだけだったのかもしれない。私の現実に、何が残っているだろう…。

ユヅキが自分の部屋に着いたとき、携帯の電話着信音が鳴った。画面を見てユヅキは一瞬固まる。それは、ユヅキのことを振ったはずの『彼』からだった。
「…もしもし。」
『もしもし、ユヅキ?俺だけど…ちょっと聞いてほしいんだ。』
「…何?」
『もうあの女とは別れたんだ。ユヅキ、もう一度だけチャンスくれないか?』
「え…どういうこと?」
ユヅキはしばらく、彼からの話しの意味が飲み込めないでいた。まるで、さっきの体験が全て嘘であったように彼からの謝罪の言葉をただ黙って聞く。
『ユヅキ、もしもし?聞いてるか?』
「…あのね、ひとつ聞いてもいい?」
『うん。何?』
ユヅキは机の上に放り出された青い錠剤のシートを見つめながら言った。
「もしも…もしもさ、私が死んだら…どうする?」
『え?!何言ってるんだよ?そんなことあったら…』
「ごめん、ちょっとね。思っただけ。」

結局のところ、結果的に私はどうやっても死ねなかったのかもしれない。どんなに確実な死ぬ方法を選んでいたとしたって、多分。だって、私は死ぬ恐怖に勝てなかったんだから。生きて行く辛さが本当に耐えられないくらい辛すぎて、それでも生きて行かないとならないなんて残酷だ。でも、そうしていかないとならないのは、そうしない限りは本当に幸せと思える運命に出逢えないから。

そしてこんな風に、プラスが待っているのかもしれないのだから。

ユヅキは錠剤の入ったシートをゴミ箱に捨てた。
『ユヅキ、今から逢える?いつものコンビニで待ってるから。』
「分かった、すぐ行くね。」
電話を切ったあと、ユヅキはゴミ箱の中の錠剤を見つめながら思った。

生きていて、良かったんだ。

急いで部屋を出て玄関に向かうそのとき、ユヅキの足が階段を踏み外した。
その瞬間、自分の周りの時間だけストップするような妙な感覚に襲われる。

あれ?何だろう、この感覚…薬を飲んだときと似てる…フラッシュバック…。

そのままユヅキは階段の下まで頭から落ちていった。そしてユヅキはそのとき初めて知る。



そっか…本当に死ぬのって、こんな感じなんだ……。





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