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野球チーム運営で得た適材適所の考え方

学生時代に運営していた野球チームがなぜうまくいっていたのかを適材適所の観点からふりかえってみることにする。

メンバーは大学生が中心ではあったが、高校生もいれば、10歳以上離れた社会人もいた。野球部経験者もいれば、まったくの素人も入り乱れていた。

弱小チームも、高い出席率による高頻度での練習試合による実戦に次ぐ実戦で、まずまずのチームになった。私設リーグでの優勝、30チーム以上が参加するトーナメント戦で3位入賞するなど、成績を上げた。

適材適所はポジションという話ではない。それはチームスポーツなら得意不得意や経験有無により適材適所でポジションを決めることは当然だ。

それよりもチーム運営を考えた時に重要なのはひとりひとりの「キャラクター」「野球に対する価値観」だった。

大学生とはいえ、皆それなりに忙しいわけだ。アルバイトもあるし、大学でサークルに属しているものもいる。野球チームの活動を楽しみに主体的に参加動機をもってもらわなければ、運営はままならない。同好会のようなチームなら余計にそうだ。

面白い現象は、いわば同好会的草野球チームだから、試合に出場できないと面白くないものなのである。ですが、勝負をかけたトーナメント大会では、自分が出場できるかどうかよりもチームの勝利に向けて一体になるという雰囲気があった。

このチームの活動目的を明確にし、所属メンバーや相手チームが心地よく楽しくプレイするための行動規範的なものも実はあった。そんなことも大きな影響があったのではないだろうか。

それでもチームを去っていったメンバーや、水が合わず定着しなかったメンバーもゼロではない。でも彼らは純粋に「文化」に合わなかったし、プレイを楽しむこともできていなかったし、チームにはなれていなかった。でもそれはそれでよかったのだ。目的を共にできない価値観がそこにはあった。

それでも残ったメンバーがなぜコミットしてくれたのか。
ただ楽しい仲間内のやり取り...ではないと思う。

大切にしたのは、ひとりひとりを徹底的に主役にするということ。
野球が上手な経験者も、野球が下手な初心者も、それぞれの持ち味であるキャラクターに着目し、うまく"いじる"のだ。いじっていじっていじりたおす。リアルでも、試合記録のWebサイトの記事でも、関係なくいじる。

野球がうまいけど本当に"天然なバカ(失礼)"もいた。野球では褒めちぎり、ベンチではいじる。でも彼は愛されキャラ。彼の野球の指導は初心者メンバーが耳を傾ける。

言葉数が少ないニヒルなエースがいた。とにかくエースともてはやし、自覚を植え付けた。でもそんなだからみんな仲良くなりにくい。そこは彼の車の助手席に乗りながら、時に飲み会で近くに座りながら、いろんな彼の意外な人間らしいところを見つけて、みんなにさりげなく紹介していった。

とにかく足が遅いメンバーは、同じくらい遅いメンバーとどっちが遅いかを競い合わせて笑いのネタにしながらも、得意のバッティングで活躍したときは見逃さなかった。守備はうまいほうなんだけど、彼がエラーしたり珍プレーをするとチームは逆に和む。

お世辞にも何をやっても野球がうまくない人がいた。でも彼は物静かにチームの年上の保護者として、唯一の大人としてみんなから頼りにされていた。

あげればキリがないが、今でも誰がどんなキャラクターで何が得意で何が不得意かを鮮明に覚えている(20年弱前の話だが)。

そんな風に徹底してひとりひとりに注目していた。

結果として私が中心から退いても、メンバーの大半が就職や転職や転勤や進学といったライフイベントで入れ替わってしまったが、いまだにチームが存続しているのは、築き上げてきた文化が継承されているようにも感じる。

会社でもチームプレイは当然のごとく行われる。
職場でひとりひとりの特性や個性に着目しているかどうか。

改めて考えてみたい。


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