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ハンニバル・レクター『羊たちの沈黙』より あと『ハンニバル・ライジング』 『レッドドラゴン』もちょっとだけ

1991年に公開された、言わずと知れたクライム映画の金字塔。公開から30年が過ぎた今も、映画界に聳える不滅の塔だ。そして、『羊たちの沈黙』をその地位にまで押し上げたのは、なんといってもハンニバル・レクター。選民的、儀礼的、紳士的で知的。なのに食人鬼。後の悪役に多大な影響を与えたキャラクターだ。

正直、こいつはあんまり好きじゃない。というか好きじゃなかった。無敵な癖に、ただの賢く若い女を気に入ったりする。なんかつまんね。でも、映画史に早くから登場した神格化を伴う悪役。考察してみないわけにはいかない。全てを書き終えて全体を見直している今、クラリスを気にいるのは、深い事情があることも分かっている。

FBIアカデミーで研修を行うクラリスは、精神病院へ収監される重犯罪者ハンニバルレクターに、カンザスシティ近辺で起こる「バッファロー・ビル事件」への協力を要請する。レクター博士は、見返りに提示された条件付きの自由を見込み捜査協力をするが、約束を反故にされ、移送途中に脱走する。レクター博士との出会いにより、クラリスは過去のトラウマ「子羊たちの鳴き声」と向き合うことになり、博士の助言と合わせて事件に立ち向かう。晴れて事件を解決し、華々しくFBI捜査官へ昇格する中、レクター博士から連絡が届く。博士はトラウマと昇進についていくつか言葉を残した後、自分を捕らえていた精神病院院長チルトンの後を追っていく。

さあ、ガバガバなあらすじは置いといて、彼を考えよう。統制下に置かれた凶器として登場した彼。初めから、全開だ。

彼の特徴としては、衝動制御の不能、いうまでもなく、明らかな反社会性パーソナリティの持ち主。もしくはサイコパスね(調べてみると、反社会性パーソナリティとサイコパスは別物らしい)。彼にはいろんな能力がある。ボディクリームと香水のブランドを嗅ぎ分けるほど感覚が鋭い。記憶に基づき美しい絵画を描く。服装から出自を見抜く。ともかく高性能。やろうと思えば、社会への順応、ひいては成功も目論めるはず。実際優秀な精神科医だ。かつ純粋悪。そして、無礼なものを嫌う。

重要な点は、これだけ「人を食った」態度を示すのに、1人の女性を気にいる点だ。キーワードは安易に「孤独」にしとくか。

要素の一つである無礼を嫌う点。無礼を嫌うというのは、フォーマルな場を求めているという事だ。有無を言わせない下卑た、瞬発的、場当たり的暴力ではなく、ルールに則った戦略的暴力によって、全てを支配しようとするし、その能力があるという自信に満ちているという事だ。複雑さの中から糸口を掴み取り、全てを操り人形に変えて、スプラッターの舞台に上がらせる。筋の通ったキャラクターだ。

人間は、どう働きかければどう動くのか。ハンニバル・レクターは、人間の研究者だ。人間を深く深く理解していくと、取るべき行動は、洗脳か愛か。その選択に迫られる。

バッファロー・ビルもハンニバル・レクターも同様に、他人を(もしかすると自分さえ)人形のように扱う。モノとしてね。にも関わらず、介するのは言語だ。尋ねてきたクラリスに、常に先手を打ち主導権を許さない。完璧なプロファイリングで彼女を閉口させ、弄んだ挙句トドメの一言だ。

「昔、国勢調査員が来た時、そいつの肝臓を食ってやった。」

食人。

ハンニバル・レクターを書くなら、ここは触れないとな。

当然カニバリズムは、文化的現象として実在している。世界各地様々な形態があるが、基本的には死者をただ灰にするより、食して魂を取り込むという、故人を送り、残されたものの悲しみを和らげる、葬儀の延長線上にある。

また、緊急事態の代替食糧としての食人行為もある。ウルグアイ空軍機571便遭難事故、シエラ・ネヴァ山脈のドナー隊の悲劇、そしてニューギニア戦線のあれ。こういった事情も存在する。

そして彼の食人だ。上のセリフから、国勢調査員への愛着は認められない。また、食糧に困るほど窮しているとも思えない。とはいえ、彼の食人を、ただの嗜癖と捨て置くのはあまりに惜しい。というわけで考えてみる。

彼の食人に置いて特殊なのは(もちろんそうでない場合もあるけど)、生きたまま食べるという点だ。もしくは、他人にも振る舞う点。この2点は、基本的に被らないが被ることもある。

「生きたまま」そして「他人に振る舞う」この2点がそれぞれ共通して引き起こす状況としては、他人の目がそこにあるというものがある。誰かに見られ、認められ、共有するという事だ。

これは明らかに儀礼的だ。ただの好物なら一人で食やいい。ここには当然、妹のことがある。彼は幼い頃、妹を知らない間に食わされた。※『ハンニバル・ライジング』

彼が幼い頃、戦時中に家族と逃れた隠れ家付近で戦闘が起こり、両親を失い、幼い妹と二人になる。そこにならずもの兵士が押し入り、食料が尽きた末、彼らは妹を食べ、ハンニバルも知らず食べさせられていた。

一般的に食は生とつながっているが、彼の場合は死と繋がっている。人肉を誰かに食わせ、死を共有する。

かつての記憶の正当化(妹はモノだ)と、拒絶(妹はヒトだ)。彼の食人は、妹を食べたこと、つまり妹の復活(妹が生きていた最後の記憶)と葬送(妹と別れた最後の記憶)を兼ねた儀式なんだ。永遠に成立しない、矛盾の儀式。一般に儀式が強度を増すのに要求する条件は、成員の頭数と支払うコストだ。

また、食べる対象には、傾向が見える。縦に割っても横に割っても、要諦の変わらない者だ。少ない言葉で、概略出来る人間。物質的世界にその全身を委ね、モノと融和した者。これは、彼にとって肉、モノと変わりない。

『レッドドラゴン』の冒頭で、楽団の落ちこぼれを食う。フルートの彼が乱した交響曲、つまり芸術という物は、ヒトの持っている神秘の最も顕著な象徴だ。

人間さえモノなら、レクターにとって、この世界にはモノしか存在しないことになる。なら、彼は初めから独りだ。この世に存在する人間は、自分しか居ない。彼の得意なしりとり(言語を介した一方的なやりとり)だって独りでやるしかない。永遠に続く、独りしりとりの様な人生だ。ヒトを対に置いた場合の、モノの顕著な特徴は、応答の無さだ。モノは、何も語らない。応えない。死んだ妹の様に。それでも妹の悲鳴は止まない。クラリスと同様に、彼の中では悲鳴がこだまし続ける。

彼が取り憑かれた心理分析は、累積と類型だ。法律に似てる。漁網なんだ、こういうのは。あまりに形が特殊で網に捉えられない、銛でしか取れない魚。彼にとってはそういう人間だけが、モノではなくヒトなんだろう。網をすり抜ける魚が深海で出会う道標。

バッファロー・ビル事件が解決した後、危険を承知でクラリスに電話をかける。この気に入りようだ。自分を捕えていた医師の背を追い市井へと消えていく。クラリスと出会った後の孤独は、今までの孤独とはまた違った苦味が彼を襲ったろう。

ハンニバルの背中は、君がいるせいで、私は孤独になった。とでも言いたそうだ。

ハンニバルは思ったはずだ。私以外がモノなのか。私だけがモノなのか。妹の代わりに自分が食われていたら、妹は健在だったろう。妹がヒトなら、自分はモノだ。自分がヒトなら、妹はモノだ。

ヒトとモノに永遠に分たれた、レクター兄妹。

二重の矛盾世界に住んだハンニバル・レクター。誰とも心を通わせず、独り地球に取り残された孤児。

深海で探した、"心"へと導くランタン。それがクラリスだ。

なんか、しっちゃかめっちゃかになったな。統制と統合ができねえ。

だが結論。

恐れた事は、モノと化すこと。都合で食われた妹の様に。

同時に渇望したのは、モノと化すこと。妹を、ヒトとして復活させる為に。

一方で彼が愛したのは、人間だ。この世で一番不可解なものは、人間に決まってる。決まりきった物事ほどつまらないものはないな。

弱点は、人間をモノに変え(妹の世界に送り込み)ながら、ヒトに接近していた一方で、それがかえって自分を人間性から遠ざけていた矛盾。そしてそれでいいと思っていた矛盾。クラリスに出会いそれを拒否しようした矛盾。


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