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水星の魔女のまとめ

水星の魔女がどんな作品だったかというのを自分なりの考えを残しておきたいと思います。注意事項として、僕は水星の魔女以外のガンダムをまだ見ていないので、今までのガンダム作品で展開されてきたテーマとか文脈とかがわからないので、今までの作品と比較したり、サーガの最新作として水星の魔女を語ることができません。水星の魔女単体としてしか語れません。


ニュータイプとは

ガンダム素人の僕が言うのは恐縮なのですが、一体ガンダムのテーマって何なのっていうのを考えると。大きく2つあると思っています。一つはどうやったら戦争をなくせますかという話。特にロボットものを支配してきた大きなテーマだと思うんですね。もう一つはニュータイプって何なのっていう話、人類の革新とか人類のコミュニケーションとか心の繋がりってのがどうやったら繋げられるのか、という話。
ニュータイプとは何かの部分はですね、政治のマクロの話と同時に人間の魂の情報空間みたいなやつにアクセスしてそれで世界を塗り替えてますみたいな話をするんですけど、それがクワイエットゼロの話だと思うんですよね。人類補完計画みたいに人の意識を全部データストームのなかに入れてひとつの意識に統合する。

どうやったら戦争をなくせるのか

次に戦争をどうやったら無くせますかという話。
なんで戦争が起きるのかと言ったら、資源が足りないからだと。本当は資源はあるけどそれを運ぶ方法がないからだと。プロローグのデリングとか見ると、宇宙は無秩序で戦争の嵐が吹き荒れていて、さらにガンドフォーマットがパイロットや人間を使い捨てにする兵器みたいになっている。それは許せないということでヴァナディースを皆殺しにした。それを通してデリングが一体何を作ったのかというと、無秩序の中に秩序を作ったわけですよね。どういうことかというと、戦争シェアリングっていうシステムで戦争に秩序を作った。これがこの世界におけるこの戦争をなくすための解決方法として一つ描かれているものなんですね。戦争をある程度秩序付けてコントロールしている。社会契約とかで思想家たちが考えてきた権力っていうものを一体どのようにバランスを取ってコントロールするのか。戦争をどうコントロールできてるのかって話ですね。まあ、戦争をなくすってのは多分ほぼ無理だとは思うんですけれども、どうコントロールするのかって言うと、戦争シェアリングでベネリットグループが地球の各勢力に与える武器、兵器をコントロールするという話をしているんですね。でも本編ではそこがあんまり描かれてないんですよね。これがどういうもので、どんな問題点を抱えているのかっていうところが。でも多分このデリングの構想ってのはほとんど問題がない気がする。つまり戦争をコントロールできてるんじゃないかなと思うんですよ。これ何をやってるのかって言うとですね。現実の世界で言うんだったらですね軍産複合体のことを言っているんだろうと思うんですよね。軍産複合体が兵器をコントロールすることによって、極端な大戦争に陥らないようになっている。そうするとこれってもうほとんど完璧に近い答えだと思うんですよ。ただ地球で一体この戦争シェアリングっていうことがどこまで紛争や人々の苦しみを減らせているのかの描写があまりない。おそらくプロローグのころよりは人類は良くなっているけど、戦争シェアリングのなかですりつぶされていく人達がいる。それがソフィやノレアのような人たちだと思うんですよ。秩序ができても地球と宇宙のあいだの格差で打ち捨てられてる人がいるよねっていう話になっている。デリングが本当にいいことをやったのかどうかなんですけど、子供とかが死んでて少年兵が生まれるような世界だったらそれはダメでしょうって話なんだけど無秩序でめちゃくちゃだったっていう過去があるわけです。それを考えると、無秩序の世界に比べれば、それはるかにマシなんじゃないということになると思うんですね。人類全体ではいい方向に向かっているけどやっぱり分断と格差が生まれていってしまう。だからアーシアンとスペーシアンっての対立が生まれて、恨みつらみでテロなんかが起きてくる。けどそれに対して明確な答えを出しているキャラがいます。

それはシャディクです

シャディクがベネリットグループの資産を全部地球に売却すればいいじゃないかと言うわけです。実際は彼の代わりにミオリネがそれをやりましたけど、これは何をしているかというと、再分配をしているんですよ。だからこのふたりは英雄だと思うんですよね。格差があるなら再分配すればいい。至極まっとうな解決方法だと思います。ただですね。ここがまた難しいのは3年後になって再分配したものが宇宙に吸い上げられてる。でもそれは当然なんですよ。何でかっていうと、宇宙がフロンティアになっていて、そのフロンティアを開拓してることによって経済が回っているので、結局全部そっちに流れちゃうんですよね。ただ、それでもあの大きな再分配をしているわけなんであの世界は間違った方向には進んでいないと思います。

水星の魔女の挑戦

水星の魔女は挑戦して、しかも成功したっていう誰も文句が出ないみたいな形で新しいものをやったので本当にすごいと思います。

やる前はなんか、女の子主人公とかポリコレじゃんとか黒人とか言ってる人がいっぱいいたんですけど、そういう人を黙らせましたよね。ネットのバズを意識していたりとマーケティングもあると思うんですけど。まあフェミニズムとかLGBTQの志向が強い人たちには、「こんなの甘っちょろい!」って言われていますけど。そうじゃない、マジョリティの人からは、「いや、これはポリコレじゃない」って言っていって。いや、これはポリコレだろってw
でもポリコレ作品においてポリコレだと感じさせないっていうのは作品の勝利だと思うんですよ。学園の制服が男女両方短パンなのもスレッタとミオリネが結婚したのも新しい表現なので。
凄くですね、新世代へ伝える物語になっているなというふうに思うんですねでだけど。
キャラクター達の感覚とかが全然古い世代と違う物語を凄く意識していると僕は感じました。
ショートパンツも結婚も性差が意識されてないんですよね。
女だからとか男だからみたいな話っていうのは多分もうなくなってる世界なんだと思います。
そういうのが嫌でポリコレ的な解釈だっていう人もいると思うんですけど、性別に拘るほうがフラットじゃないというか、男女でも女女でも男男でも別に何でもいいっていう感性のほうが、男女に拘るよりフラットだと思うんですよね。もちろん、ヘテロだけなんておかしいって同性愛とかに拘るのもイデオロギー的で偏っているんですけど、ヘテロしか認めないって拘るのもそれと同じくらい偏っていると思うんですよね。今までは異性愛が当たり前だったけど、ただそうだっただけで、そこに正しいも間違いもない。構造主義的に考えると、異性愛に拘るのは西洋中心主義や進歩主義に拘るのと同じで、偏りがある。

「逃げれば一つ、進めば二つ」について

「逃げれば一つ、進めば二つ」っていうセリフが一番のキーワードで話の主軸だったと思うんですよね。
進撃の巨人とか鬼滅の刃とかで、逃げたら全てを失うし、変わらなかったら負けるいう話がされていました。一方、日常系のアニメでは、逃げてもいいんだよとか、変わらなくてもいいんだよっていう話がされていました。今までは「逃げる」か「戦うか」の二者択一だったのが、プロスぺラのセリフに象徴されるように、進んだり変わったりしてもいいし、変わらなくて逃げてもいい。逃げても一つ手に入ります。けど進んだら二つ手に入りますよ。それでしか得られないものっていうのがありますよと。そうしたときにどうしますかっていう選択肢に変わってるんですよね。水星の魔女を最後まで見たら、進むことが正しいかっていうと、そう言うわけでもない。なんていうか非常に難しいところを突いてきてる。「進めば二つ」と言いながら、進んだからといって二つ手に入ることが保証されていませんよと。それだけじゃなくて、その二つを手に入れようとしたら別のものを失うかもしれませんよ。そういうことを全部わかって、あなたはどうしますかっていう話をしてると思うんですよ。逃げてもいいし変わらなくてもいい。逃げても一つ手に入るってのは優しい言葉なんですけど、それは言葉の綾であって、実はそうとは限らない。逃げたら一つ必ず手に入ります。進んだら必ず二つ手に入りますって理念型なんです。
だから何しても失うかもしれないし、何しても手に入らないかもしれない。何もしなくても失うかもしれない。しれないけど、逃げることと進むことの価値は等価値でどうなるかわかんないから好きなようにすればいいんだよって言っている。けどそんなの机上の空論なんですよと、人間の選択というものの本質を突いてきている。人間の選択とその結果というものは矛盾に溢れていて、それをアウフヘーベンするという、弁証法的に人間の選択というものを描いている。それを描くなんてすごい作品だなと思いました。フェーズが一周回った感があって、エヴァでシンジ君が乗らなかった。乗りたくないってことは、世界を救うこと、責任をとること、成長することを、前に進んでいくこと、変わっていくことを全て受け入れませんということを宣言した。98年、ほぼ00年代、90年代から20年間そういう時代だった。逆に70年代60年代50年代ぐらいに遡っていくと、高度成長期の時代だったので、世界を守るために戦うとか、自分が責任を取るとか、成長していくっていうことっていうのはどんなパワハラがあろうがブラックだろうがそんなの当たり前でしょっていうものすごい強烈な時代だったんだと思うんですよね

親子問題

水星の魔女は圧倒的な親の呪いっていうのが設定されてるってのは、今親ガチャとか環境ガチャとかが言われているからだと思うんですね。けど親に問題があるっていうのは別に今に始まった話じゃないんですよね。これだって碇ゲンドウとかそういう親の呪い、親子問題の話を連想する。昭和や平成の感覚では、エヴァンゲリオンのシンジ君の話にすごい典型的だと思うんですけど、シンジ君とゲンドウの関係とかを見ていくとですね。もう救いようがない毒親で和解しようがないみたいな感じ。それで親や環境に対してどうすればいいのかって頭の中でグルグルして自分の世界に逃げちゃって内面の話になっている。けどエヴァと違って水星の魔女は内面の話にならなくて、クソな環境でどうやってサバイブするかの話をしているんですよね。結構覚悟決まっている。内面の話をするのはもう終わりで、もう物語のフェーズは変わったんだよと。親ガチャみたいなのは親がやっぱりおかしかったとか全ては親が悪いっていうのはわかっているけど、悪いって言ったって変えられないわけじゃないすか。親の責任を指摘して、親を憎んだり断罪したりするのは必要なことだけど、もう散々それはやったよねと。そろそろ自分の内面から脱して現実を見ないと幸せになれないよと。戦略的に現実をどう変えていくのっていうことをすごく考えられるようになっている。シンエヴァでもシンジ君がゲンドウと対面して和解をしてる。
やっぱ親って親にも親の人生があって、親は自分と違う他者であることを理解して、そこから親との関係をどう精算するのかが問われている。
ミオリネが、自分の身で戦うためにどうすればいいのかってときに会社を作りましたけど、一人で闇雲に戦うのをやめて組織で勝負しようっていうのは、身の回りの環境を変えていくということなんだと思います。そういう環境と、テロなんかで状況が変わったことでデリングと対話できるようになった。彼女は最後幸せになったんですけど、やっぱり人間結局環境なんだよねと。なろう作品も異世界転生して環境が変われば人間成長できるし幸せになれるということを示していると思います。
だから逃げるのも、怖いから嫌だからできないから逃げるっていう投げやりな理由じゃなくて、ここでは俺は戦えないからこっちにかけるっていうふうにちゃんと決断してるんですよね。「逃げてもいいよ」っていうのは積極的な逃げなんですよ。昔と違って、今が嫌だからじゃないんすよ。これが新しい。だから現代的だなって思って、今の子供達の世代の話をしているなと思いました。

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