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001\\\「外に意識のカラダを出す」という練習です。

これは「幽体離脱の練習」ではありません(笑) これは「外に意識のカラダを出す」という練習です。ときどき、幽体離脱の練習?と間違われたりもしますが、残念ながら違うものだと思います。同じだと面白いのですが。(笑)

言葉のひびきがどことなく似ている?ところがあるかもしれません。どこかこのふたつの練習は似ていて、しかし根本的に違うものです。これは幽体離脱の練習ではありませんが、しかしどことなく、きっと似ているものかもしれません。

外に出すのは、「幽体」の方ではなく、「意識のカラダ」の方なのです。

「外に〇〇を出す」という点では、「気を出す(合気道や太極拳)」「自分の分身を出す(忍者?)」というというのとも共通点ありそうです。ビジネス界でよく言われる「目標が達成したフリをしているとやがては成功に導かれる」というイメージトレーニング(自己啓発トレーニング)にも共通するかと思います。

ぼく自身は武道や忍者にはあんまり関心はありませんし、ビジネスにも興味はないのですが、「原理」としてはいろいろな世界と共通点がみつかる練習です。決して「特殊でニッチで陰気でマイナー」なだけのものではありません。しかしいろいろな意味で「秘密のメソッド」の類であることは確かだとは思います。

ぼく自身は幽体離脱にも大変興味があって、いろいろ本を読んだりしてちょっとだけ自分流に試みたことなどありましたが、あまり向いていないようで(睡眠中でおこなうというあたりが)、挫折いたしまして、今はぜんぜんやっていません。しかし完全にやめたわけでもなく、まだ心のどこかで「出来るようになりたいな」などと思ったりはしていますが・・・。


えーと、では、タイトルの「外に意識のカラダを出す」という練習のお話しをしてみましょう。

さて、これは何の練習なのでしょう。「何か」のための練習です。しかもその何かの練習ための「初歩レベル」の練習の内容なのです。

初歩というわりには、「外に意識のカラダを出す」などというと、ずいぶんと高度な内容のハナシのように思われますが、ぜんぜん高度でも高次元でもハイクラスでもないのです。初歩の初歩の、何かのための練習の内容です。

中国の仙道の修行では、空間にただよっている気のエネルギーを体内に集めて、それを体内で人の形になるくらいにまで濃縮させて「気のカラダ」を作り、最後にはそれを肉体の外に出す、というものがあるらしいです。

「外に意識のカラダを出す」というのは、それとは違います。そんなに何十年も修行してやっと出来るというものではありません。

仙道では、そんな「気のカラダ」を何のために作るのかというと、人間は最後に死んでしまいますが、死ぬあたりになったら、その「気のカラダ」に自分の意識を乗せて、そのままあの世に行きましょ、というものらしいです。仙道でいうところの「宇宙と一体になる」の世界らしいです。さすが不老不死の国というあたりでありますね。


それで、まずはじめに説明しておきますが、人の身体には「二重性」というものがあります。二重性というのは「肉体のカラダだけが人の身体ではないよ」ということです。そう考えると、必然的にもうひとつの「肉体のカラダではない方の存在もあるよ」ということになります。

肉体のカラダの方は眼に見える存在ですが、肉体のカラダではない方は眼には見えない存在です。この、眼に見えない方のカラダのことを一般ではナントカ体やらカントカ体などと名称が付けられています。

その中に「幽体」というのがあったり「気のカラダ」があったりですが、「幽体」も「気のカラダ」も、どちらも特殊な世界のものです。とっても「初歩レベル」の人があつかえるようなものではありません。

ここでは、「見えないカラダ」の方に「意識のカラダ」と名付けて呼んでいます。人の身体には「意識」というよりももっと深い「無意識」や「霊的」なカラダもあるだろう、とツッコミを入れたがる人もいるかと思いますが、肉体のカラダではない方の存在をひっくるめて「意識のカラダ」という意味で名付けていますので、そのあたりはよろしくでございます。


しかしぼくの、ここで言う「外に意識のカラダを出す」練習というのは超簡単です。極シンプル。才能も素質なんかも要らずです。今まで何かをトレーニングしてきたから出来るとか、体力があるから出来る、頑張れば出来る、という類のものではありません。

幽体とか気のカラダとかではないのです。これらは本当にむずかしい世界ですよ。それに比べて「意識」なんて誰でも持っているものです。意識というのは、心とか精神などとは違うものなのです。心のトレーニングや精神訓練などというと高度な感じがしますものね。

超簡単で、極シンプルで、才能や素質などは要らない、この「意識」の扱い方と言えばただひとつ。「想うだけ」です。「想う」「想い浮かべる」だけで出来るものなのです。つまり、考えすぎない人になら出来る、という類のものです。

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この「想う」にちょっと似たものに「思う」というものがあります。読み方も「オモウ」という同じ読み方で似ていますが、このふたつは違うものです。やっかいなものですね。

それで、このふたつはどう違うのか?というと、「思う」の方は、「思ったらその後どうなったか?」の結果までを気にすることまでを含みます。しかし「想う」の方はとても簡単です。「想っただけだよ。想ったその後のことまでは考えない」ということです。

つまり、想いっぱなしのことを「想う」と言うのです。自分が何かを想った後に、それが正しく想えているかどうかを気にする必要が無いのです。しかし「思う」方は大変です。思ったが最後、それが達成されるまでちゃっと見届けてゆかなければなりません。責任があります。「思う」方には。

「思う」には技術や技法やテクニックやらスキルなどが必要ですが、「想う」の使い方は無責任とまでは言いませんが、ごく自然発想的にやってしまえるのがいいのです。その場その場的です。主観的で、自由なのです。


そして「外に意識のカラダを出す」練習では、この「想っただけ」で(それが出来ているかいないかを確かめる必要も無く)、事後チェック抜きで「出来ているよね」としてしまえる練習となっています。

逆に言えば、「想った」その後のことの余計なことは考えない、ということになりますので、あんまりアタマを使いすぎる(「思う」が好きな)人にはあまり「向かない」かもしれません。

いわゆる前頭葉タイプの人です。あんまり考えすぎてしまうと、せっかく外に出た意識のカラダが、再び身体の中に戻ってしまうのです。前頭葉タイプではなく、もうひとつのである視床下部タイプの人には「想う」は向きそうですね。

疑り深く、自分に対しても、あまり信じていないという人も、もしかしてこの「外に意識のカラダを出す」は苦手なのかもです。どうしても「形」として見えない世界ですから。


では実際に、「外に意識のカラダを出す」には、どうやれば、どうすればよいのか?をお話ししてゆきましょう。

人の身体は「二重性」で出来ていますので、そのうちの「意識のカラダ」の方だけに、「外に出るんだよ」と「想う(想ってあげる)」だけです。「出る」と「想えば」出るものです。

逆に、「出ないよ」「出るわけないよ、そんなもの」と想えば、出ません。「出ないよ」と想っているのに「出てしまう」人は、ちょっと病院に行ったほうがよいかと思います。


それで、「出す」ための注意点がひとつだけあります。それは、ここでも幽体離脱とつい比べてしまうのですが、幽体離脱の場合は、身体から離脱して空中にふわふわと幽体が出てゆき(のだと思いますが)ますが、意識のカラダは空中に浮いてお空には飛んで出てはゆきません。

意識のカラダは、普通に(?)「地面伝い」で出てゆきます。地面からちょっと浮いて、スーッと、1歩・2歩・3歩、と「歩いて(?)」出てゆくのです。

「歩いて(?)」と言っても、意識のカラダには脚なんかはありませんから、1ミリくらいあたりの地表を浮かせるように移動して出てゆく、そんなイメージだと理解してください。空中やお空にではなく、必ず「地面伝い」でですよ。脚は動かさなくていいです。


うまく「外に出られると」、コチラの肉体のカラダと、目の前にいる意識のカラダが、なんだか向かい合っているように、「ふたりいる感覚」を覚えます。不思議な感覚のような、当たり前で自然のような、そんな感じになります。

目の前にいる意識のカラダとは、他でもない「自分」のものですからね。知らない他人がやってきたり、あの世から降りて来たものだったら怖いですが、自分から分離した存在ですから、なんら不思議でもないのです。

それで、再び身体の中に意識のカラダを戻してみると、また元のように、ただのひとりぽっちの自分になります。出したり・戻したりしてみて、ハッキリと「違い」を感じられれば、外に意識を出す練習はうまくいっている、とも言えます。

いくら出しても・戻したりしても、なんら「違い」が無いようだと、出来ていないということになるかもしれませんが、しかしこれだって「ホントに微妙な感覚」ですから、ホンのわずかでも「違い」がわかればOKにしてください。目の前で実際にぼくが見ていれば、出来ているのかいないのかが、すぐにわかるのですけれどね。


身体から「外に意識のカラダを出す」とは、これは「生」でありながら、同時に「死」でもあると言えます。吸う息は「生」、吐く息は「死」と言われるように、です。

怖がらないでいただきたいのは、「死」というのは、自分の身体が死んでしまうという意味というよりも、今いる「場(内の場)」から違う「場(外の場)」に移動してしまう、という意味の「死」であって、意識的な、積極的な「死(場の移動)」を意味するものだととらえてください。

幽体離脱も、「死の体験」「死後の体験」と言われていますが、そのあたりはどことなく(根本的には違うでしょうけれど)、幽体離脱と外に意識を出すは、似ているかも(説明上では)しれません。

あらゆる宗教には、「死後に地獄に行かないように」というような「死後の教え」が必ずありますけれど、「幽体離脱」も「外に意識を出す」も、トレーニングとしてはどこか似てはいるのでしょうね。

やはり、「死」を意識しておく、ということは「生」のためには、絶対に必要なことだから、だと思います。

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「外に意識のカラダを出す」という練習についての説明はこんな感じです。さらにもうひとつ付け加えたい説明があります。

先ほどから出てきている、意識+カラダの「意識のカラダ」についての説明ですが、ぼくの考えでは「カラダ」というのは移動するもの(出来るもの)だととらえています。

ここでは、自分の中の「意識」が、外に出ると「意識のカラダ」と呼ぶようにしています。それは、コチラからアチラへ、アチラからコチラへと、動く、移る、移動が出来て、固定されていないことを「カラダ」であると解釈しています(あくまでぼくの考えです)。

自分の意識が外出て、コチラからアチラへと移動してくれるようになれば、これが「意識のカラダ」だよ、ということになります。移動をしない(出来ない)のは、ただの「意識」と呼んでおります。


「意識」と「意識のカラダ」。このふたつの違いだけはおわかりになっていただけたでしょうか? 外に出れば幽体のように移動出来るから「カラダ」と呼んでいるのです。

では自分の「意識」が、どこからどこに移動すれば「意識のカラダ」と言えるの?ということについてですが、それは簡単です。

肉体のカラダの中から外に「意識」移動が出来れば、それでOK、「意識のカラダ」だよ、となります。自分の中から自分の外に、自分の意識のカラダが移動する。なんだかすごいハナシです。しかし何度も言うように、高度でも高次元でもハイクラスでもありません。


さらにもう少し深く広く「想う」を自由にあつかえると、何かの対象とひとつになる、何かの対象の中に入る、誰か他者とつながる、ということにもなってゆけます。

こんなことは、人間なら誰でも出来る(やってる)、「想う」というだけのことです。テクニックもスキルも要りません。直観などでもありません。インスピレーションというスピリチュアルなものでもないのです。ただ「想う」だけですから。


それで、遅くなりましたが、「何のための練習なのか?」についてですが、実はこれ、「呼吸法」のための練習なのです。

呼吸法? なんで? 呼吸法なんて肉体のカラダの方がするものじゃないの? どうして呼吸法をするのに「意識のカラダ」なんて必要なの? そんなの大きく息を吸って、幾つかそのまま数でも数えて止めて、その後ゆっくり長く吐けばそれで呼吸法でしょ? なんて言われてしまいそうですね。

確かに。肉体のカラダの方だけを考えれば、それで十分、間に合います。健康法とか睡眠を補うというだけの意味でしたら。大きく吸って、幾つか数を数えて止めて、その後ゆっくり長く吐けば、十分健康には良いと思います。

「呼吸法」とは呼吸をする方法のことを言いますが、では、何に呼吸させる方法か?というお話しになります。

え? 何に呼吸させるのかって? 何にって?肉体のカラダの方にじゃないの?と、またまたツッコミを入れられそうですが、実は肉体の方にさせる呼吸法ではないのです。そういう呼吸法ではないのです。


実は、自分の外に出した「意識のカラダ」の方に呼吸をさせてあげるための呼吸法なのです。

意識のカラダは、肉体のカラダのように呼吸して生命を維持するシステムを持っていません。しかし意識のカラダだって本当は呼吸を求めているのです。肉体のカラダの方はわざわざ呼吸法などしなくても自然に呼吸はしています。

しかし意識のカラダの方は、意識的にわざわざ呼吸をさせてあげないと、ダメになってしまうかもしれません。なにしろ意識の「カラダ」ですから。カラダにはエネルギーが必要です。意識のカラダの方にこそ、エネルギーを供給してあげる(あげたい)ためには「意識のカラダ仕様の呼吸法」が必要となります。


それで(最後になりますが)、こんな、「外に意識のカラダを出す」練習をして、「意識のカラダ」に呼吸をさせてあげたりすると、どうなるの? 何が得られるの? 何になるの? というご質問がおありになるかと思いますが、それについては「やってみないとわからない」「やった人によって結果が違う」というお答えになりますが、そんなのではダメでしょうか?

なにしろ、あつかうものが「意識」ですからね。結果は、練習をする人の個性に必ず寄り添うことになるハズでございます。まだ見ぬ、まだ知らぬ、内なるご自分の才能が開くかもしれませんし、「意識」のトレーニングをしていたはずなのに「肉体のカラダ」の方の感性や能力が出るということもあります(ありました)。

まだ今回のお話しだけでは、このことをぜーんぶを説明できたわけでもありません。やっぱり特殊な世界かもしれません。こういうことは。ぼく自身はごく普通にこういうことを「日常のこと」ととらえて日々を送っていますが、普通に考えたらこんなこと、「非日常」なことだと思われますね。


うまく(?)自分の中から外に意識を出せるようになりますと、自分の肉体はコチラに居ながら、意識のカラダはちょっと先(1歩~3歩先くらい)に居るという「二重性」がハッキリと感じられるようになってゆきます。

コチラには肉体のカラダ。アチラ(あるいは目の前)には意識のカラダ。

これが《二重性》です。慣れれば、歩きながらでも、踊りながらでも、誰かといても出来ますし、むしろ、この《二重性》の状態の方が都合が良いシーンだってあるかと思います。

そのあたりは、おひとりおひとりによって、違いが出てくるかと思います。おこなっているスポーツや身体を動かす類のことや、お仕事の業種によっては、生活の中で、今まではごく普通にやっていたことに《二重性》を重ねてみると、こちらの方がすごくやりやすくうまく運ばれるようになる「魔法の《二重性》の杖」と使えるものなってゆくかもしれません。


なにしろ、自分が「ふたり」になるわけですよ。肉体のカラダと意識のカラダの二重の自分。自分という存在がコチラとアチラの「ふたり分」になってコトが進んでゆけると自由度は確実に高まります(もちろん使い方によってですが)。

《二重性》。1本だった刃が2本の刃になって「ハサミ」になるようなこと。どう考えたって、やはり1本の刃でいるよりは2本の刃になってハサミになったほうがいろいろなことが出来ます。自由度が何倍にも増します。

このように、《二重性》とは、自分を1本から2本になるようなことだとイメージしてください。まずは、自分の中から意識のカラダを出して、コチラとアチラの「2本の自分」「ふたりの自分」になるイメージからです。

コチラには肉体のカラダ。アチラ(あるいは目の前)には意識のカラダ。

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これはとても面白い練習です。ぼくが誰かに教えたりしている時に感じるのですが、その人が何気なく「外に意識を出す」と想った瞬間に、その人の目の前にその人の「意識のカラダ」が見えたりいたします。

どう見えるのかというと、なんだか透明な、水の中にある温かいお湯があるかような(笑)、その人の目の前の空気が濃厚になったように、見えるわけです。

これを「気が出ている」「オーラがある」とも言える状態かな?とも思うのです。

しかし、このあたり、「すぐに出来ることは、すぐに出来なくなってしまう」というのもつきまといます。「想う」という、ちょっとしたことですが、雑念やら考え事に気をとられると「アレ?」というくらいに出来なくなったりしますが、そんな時に少し深呼吸などするとすぐに出来るようになったりいたします。


このように、文章で書いたりするとなんだかむずかしいハナシをしているように思われますが、ここまでのことでしたら、少しやってみれば、誰でもすぐに出来るステップです。

あとは、この《二重性》をどう応用して使えるようになるのか?という段階に入ってゆきます。始めに「初歩レベルコース」が理解出来ましたら、すぐに「実用レベルコース」に入ってゆきます。

実用レベルとはどういうことをするのか? と言いますと、外に出した「意識のカラダ」に対して、さらに別の「想う」を重ねて用いて、それを「動かしてみる」という練習のことになります。

どことなくテレパシー的な訓練も含みますが、そうたいしてむずかしいものではありません。遊びながら、楽しんでやってゆけばよろしいだけです。


ここまでが、初歩のコースについてのお話しでした。肝心の、「呼吸法」についてですが、初歩のコースでは、まずは「肉体のカラダと意識のカラダの両者の息を合わせる」ことから始めてゆきます。

簡単に言えば、肉体のカラダと意識のカラダを「仲良くさせる」ことが呼吸法の第一歩となるわけです。両者の「息を合わせる」ことから呼吸は始まるのです。

よく、ふたりの人が気持ちが合うことを「呼吸が合う」とか「息が合う」といいますが、意識のカラダにさせてあげる呼吸法とはこのような感じを言います。このようにだんだんと「静から動」へと練習は実用的に進んでゆきます。

001\\\「外に意識のカラダを出す」という練習のお話し、こんな感じでした。これについて、ちゃんと書いたりするのは初めてのことでしたが、伝わっていますでしょうか? 気になります。

今回は001\\\第一回ということで、書く量も、たくさんになってしまいました。次回からは、少なめに、書きます。

★呼 吸 法 ワ ン ダ ー ラ ン ド///★

つづく


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