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020\\\ ぼくのオーラ初日体験です。

正直言うと、ぼくはあまり「身体を動かす」ということは、小さいころから苦手(好きじゃない)でした。小学校の授業でも体育の時間が嫌で、それも体育が嫌という以前に、着替える動作が好きでないというのと、グループ活動がダメというのとが重なって、それで体育の時間がダメでした(これは身体を動かすのが苦手とは関係ありませんが)。

それでも、15歳くらいになると、近所の同級生(違う高校でしたが)に誘われて、少林寺拳法や空手など、やったりはしましたが、きつい肉体訓練はあまり楽しいものではありませんでした。

身体を動かすという以前に、とにかくあの道場内の、あの独特な上下関係が嫌でした。今から考えるとまるで会社みたいです(就職経験が無いので会社ってどういうものなのかすらも知らないのですが)。


ぼくは、12歳くらいの頃からグラフィックデザイン系の勉強を始めていましたので、話題と言えばすぐにデザインのハナシであればすぐに盛り上がるものの、武道のハナシなどは、まったく盛り上がらない、まるでダメな道場生でした。

それでもぼくは、「身体を動かす」のが苦手ということに関してはまったくコンプレックスなどはなく、まわりにいた、身体を動かすのが得意なボクサーやらダンサーを見ても、あの人たちはどうせ特別な人たちなのだからと、そのように思っていたわけです。

そんなこんなの中で、ぼくは、17歳のある日、身体の中から、突然、空間が外に広がったという「神秘的体験」をしたのです。これがそもそものオーラの初日でした。


身体の中から空間広がる、というのは、身体のまわりにちょっと広がったという程度ではなく、その居た場所の中(吉祥寺のイタリアンレストランの店内だったのですが)全体に広がったわけです。身体の中にいた見えないナニモノかが、ついに呪いが解けて外に出ていったかのようでした。

広がったぼくのオーラ体には、触覚のようなものというか、皮膚感覚のようなものがあり、そのお店の中の床や壁や天井、他のテーブルのお客さんやその他にまで、オーラ体の触感が広がったというわけです。

脳の中や身体の中は、シュワ~ン!!・・・という感じだったのを覚えています。その、オーラが広がった(身体が空間に広がった)時に浮かんだ「言葉」がありました。それは「空間だー」「愛だー」のふたつです。そのあたりで、「愛」と「空間」は、ひとつになったのです。


ぼくのオーラ(その時は「オーラ」という解釈はありませんでしたが)は広がって、そのまま、その場の中の空間や人々と触れ合い、その感覚を「愛」なのだと瞬間的に感じたからこそ、そんな言葉になったのでと思います。

この時の愛とは、人間愛の愛ではなく「空間の愛」なのです。つまり自分から広がることが愛であり、それは人間に対しての愛とは違うものなのだと思うのです。それは今でもあまり変わりません。

通常「出会い」とは、当然「人間と人間との出会い」なのですが、ぼくの場合、どうしてもそこに「空間(オーラ)と空間(オーラ)との出会い」の相性を感じ取ろうと思ってしまうのです。ふたりの間の空気(空間とオーラ)の相性って、どうなの? と。「見えない相性」が大切です。


オーラ体には「触覚」のようなものがあるので、例えば誰かに直接手を使って触れなくても、オーラの表面にある「皮膚感覚」のようなもので相手(相手の空気)に触れると、なんだか不思議な一体感が生まれると気が付いたのは、それからずいぶん経ってからです。もちろんオーラの触覚で触れるものは、相手の身体ではなくて相手の空気(オーラ)の方ですよ。

身体と空間(自分から広がって出たオーラ空間のことです)のつながり。これは知識的に知ったのではなく、文字通り「身体で感じている」ものですから、この感覚の解釈をどこかに求めても答えなどは見つかりません。

心理学でも無いし、体育学でも無く、空間やオーラの教えなど、探してもわかりませんし。肉体のカラダが空間のカラダに少しずつ変化してゆくような感覚を、長い年月の中から自分でその法則や原理などを見つけてゆかないければならないのです。ひとりで。

丸いオーラがいいね00

こんな感じになりつつある中で、ぼくは前衛舞踊系の人たちと出会い(20歳くらいの頃でした)、ヨーガ、整体、太極拳や気功、呼吸法、へんな手かざし宗教、合気道、などのような世界と出会います。

大きかったのは「変わった音楽」の存在でした。こういうカラダですから、聴いた音楽は耳を通して、そのまま全身の神経系統に巡りまわります。もう、それは音楽を聴くというより、音楽の水の中に溺れて意識が薄くなりながら動いている、という感じです。

身体と音楽。身体と空間。音楽は振動ですから、外に聴こえる音楽振動はそのまま身体の中にしみこんできては自動的に(勝手に)動き回ります。


身体のまわりには「空間神経」のようなものがあります。「身体」を動かそうとするよりも先に「空間(オーラ)」の方を先に動かすようにすれば、それにつられて(引っ張られるようにして)身体が動いてくれるという関連感覚がわかったのです。

流れるプールの中にいて、流れる水に身体を動かされるというのと似ています(水=オーラです)。しかもそのオーラを動かすのは「自分の意識」でおこないます。自分の意識を自分の身体に置くよりも、外の空間(オーラ)に置いて、そのまま外を「意識」で動かせば自分の身体も動く、という順序をだんだん理解できるようになったのです。

まわりのオーラというか空間というか、そちらを優先にするべきなのです。意識でそれを動かすイメージをすると、身体はそれに流されて動かされてくれますが、その主役になってくれるのは、どうしても「音楽」でした。


身体のまわりのオーラというか空間に「音楽を聴かせる」をすると、身体自体は踊ろうとしなくても、オーラというか空間の方が動かしてくれるということなのです。外空間情報と内空間神経が、『音源(音・振動・周波数・人の想い・人との同調など)』によって、つながる。

リーディング相談の「リーディング」や、エネルギーヒーリングなども、全部この応用です。呼吸法や意識コントロールもそうです。武術の練習などもホンの少しだけはやったことはありますが、ぼくにとっては踊りも武術も同じ原理でした。ただし武術そのものに関してはあまりのめり込めなかったので薄く長くはやったりしていましたが、いろいろあって、止めました。

とにかく今になって思うのは、ぼくにとっては「身体とオーラ(空間)のつながり」だけですべてをやって来たようです。17歳の頃からみればもうずいぶん経ちましたが、あの初日があったからこそ、独自のオーラ体感覚というがあるのだと思えるのです。


オーラ(空間や空気)とは、ぼくにとって、楽しい遊び道具です。無限に答えや結果は出ませんが(遊び道具ですから)。オーラのテーマとは何か? と考えたら、それは「身体を動かす」ということです。そのための原理や法則のためにオーラ体はあるのだと確信しています。

その結果、職業として使える感覚や独自技法を見つけられましたし、人間関係も独特なものになってきました。オーラというと、静かな瞑想や精神世界的に理解されますが、ぼくにとっては「身体を動かす」ということが完全に主です(もちろん身体を動かすためにオーラや空間を動かすのですよ)。

オーラ体は、ぼくにとって、(精神世界的にではなく)物理的感覚として存在している自分の分身のような見えないカラダです。


ただ、ひとつだけ問題があります。オーラ体は自分の「意識」で動かしているため、この「意識」を忘れてしまうと、結果的に身体は思うようには動けなくなります。オーラ体を忘れて直接身体だけを動かそうとしても、もうそういう神経回路は薄れているためです。必然的に常時自分のオーラ体と空間の存在を意識して見守っていなければなりません。それは自分をいつも外側から観察しているような見方なのです。観の眼ともいいます。

★呼 吸 法 ワ ン ダ ー ラ ン ド///★

つづく


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