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014\\\ 見えたものと自分のオーラ体がひとつになれば「内を養う」になれます。

身体(肉体部)の、まわりを丸く包むように存在しているオーラ体は、まるで自分と外との境界線が曖昧になっている「自分の部屋のよう」なものです。光のような空気のような部屋(プライベートスペース)ですから、境界線がハッキリていないのです。

自分という存在が、自分の身体(肉体部)だけでなく、まわりを包んでいるオーラ体までが「自分」の領域です。

肉体部の方にばかりに自分の意識があるようだと、自他と内外をハッキリさせて境界線を明確に作るようになってしまいますが、オーラ体の方に自分の意識を多く乗せていると、自他・内外の境界線は曖昧になる分、自分の存在エリアは広がって、外からの情報量は増えます。


■(1)外を感じる (2)内を養う (3)外に感じさせる という3つがオーラのテーマです。外を感じるためには、内外を曖昧な感じにさせておく必要があります。外を感じるためには、外からに対して受け身になって、外を内で感じるようにすると、楽に外から内に、いろいろなものが入るようになります。(他人に対して従順に受け身になるという意味ではありません)

外を感じて(それが良いものであれば)、それと同調して同化してゆくと、それ自体が「内を養う」ことになるのです。たとえば好きな人といっしょにいてしあわせな気分になると、そのしあわせは「ふたりの間」にも存在しますが、「自分のオーラ体の中」にも養われます。

逆に、好きでもない人といっしょにいると、(当たり前なことですが)無意識にその相手に対して反発ししまいますし、怒りや嫌悪になってゆきます。そうなると、悪い意味の「内を養う」に変わってゆきます。怒りや嫌悪に養われてしまう(養われるというよりは「悪意」が起きてしまう)わけです。


世の中で一番思い通りにならないのが人間関係です。それはやはり「他人」だからなのです。他人の存在を思い通りに操るのはオーラ体だけでは出来ません。お互いのオーラとオーラの相性の良さがあればなんとかなりそうですが、しかし、オーラとオーラの相性だけですと、なんだか「純粋すぎて」しまいます。

オーラとオーラの相性の中には、それは「人間性と人間性との相性」というよりは、神秘性の相性とか、周波数そのものの同調とか、大自然のような空気と空気の相性のような、そんな感じがいたします。

人間と人間との相性とは、「言葉と言語の相性」だったり、「損得利害関係の相性」だったり、「趣味や好みの相性」だったりしますが、オーラとオーラの相性ですと、なんだか計算の無い、空間的な無形の相性なのです。

そのようなオーラ感覚の相性は必ずしも「人間性の相性」とは一致しないものです。無意識の相性と言えばよいでしょうか。オーラ体にはオクチもオミミもオメメもありませんが、「意思の同期」や「感情の同調」「心地よさの共鳴」などが起きたりしまして、言葉とか説明などを飛び越えた、説明不要的な同調感覚と言えます。


2匹のひつじ クウキの神様


この感覚は、人と人が出会ってイイナと思える、「原初の相性」と言えばよいでしょうか。あるいは子供と子供の相性のようと言えばよいでしょうか。オトコとオンナでしたら、これが恋といえば恋なのかもしれませんし、愛の目覚めにつながるものとも言えそうですが、この「初日感覚」をお互いで養ってゆければ素晴らしい相性になってゆけると言えます。

どうしても大人のオトコとオンナの間には、計算やら戦いなどがあって、日々の生活の流れの中で、この時の初日感覚はついつい忘れがちとなります。初々しい初日感覚よりも、日々の生活の方が「生きる」には重要だからでしょうね。

人が持っているオーラ体は、「社会の中での人間性」の世界よりは、植物とか、空気とか、地面や、お空や、風や、伝達し合う同調意識のようなもののような、「モノフォニックで単細胞的な」もののようです。シンプルです。オーラ体とは、大人が持ってしまっているものというよりは、子供が持っているもの寄りなのだと思えます。


(2)内を養うとは、このように、「相性によって同調することで」お互いの「内」に起きることを言います。「内」とは「相性」という意味にもとらえてください。相性での通じ合いが、自分の内を(相手の内も)養われてゆきます。

この時の「相手」とは、なにも人間だけでなく、車や、アート作品、音楽や、画面に映るもの、文字として表現されているもの、大自然や生物たち、などなど、「自分が仲良くしたい対象」すべてたちが「相手//パートナー」なのです。

もちろん、恋愛のパートナーや仕事の仲間、いっしょに練習したりする仲間もそうですし、チーム、グループ、そこでみんなが集まる場も、この場合の「相手」と考えられます。

(2)内を養うというと、つい自分の内を「守り」ばかり意識を向けてガッチリとガードしてしまうように解釈されますが、違うのです。(1)外を感じるというのも「外に向けて外を覗く」意味ではなくて、「外を内に感じる」ということですので、(2)内を養うというのも、「外を内に呼び込む」ことなので、(1)も(2)も、言葉の表現が違うだけで同じようなものです。


ですので、(1)外を感じる (2)内を養う には自然なつながってゆくものです。(1)外はもう感じたから、じゃあ次は(2)内をね、というものではないのです。このあたりにはあまり境界線は設けなくてもよいとは思いますよ。

今回の「内を養う」は、前回の「013\\\ あなたもオーラの占い師に?」の続きのお話しだと思ってお読みくださいね。

「内を養う」というものを、なんとなく(オーラ感覚で)分かってまいりますと、なにかしら、自分の「内」に、「見えないチカラ(感性や能力)」のようなものが宿ってくる感じがしてくるものです。何かしらが自分とうまく重なっていて、今までの自分ではあり得なかった新しい感覚が追加されたようになるものです。

オーラ体とは、自分の肉体とは別にある「もうひとつの見えないカラダ」ですから、見えないチカラとつながるのも、それは自然なことですね。その見えないチカラとは一体、なにものなのでしょう? それはきっと、目の前の空間の中に棲んでいる「何か」なのでしょう。その存在の呼び名を、おそらくスピリット(スピリチュアル)と呼んでいるのだと思います。

★呼 吸 法 ワ ン ダ ー ラ ン ド///★

つづく


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