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011\\\ 吐く息には「痛み止め」の効果がありました。

自分の吐く息の中には、「生きるためのエネルギー」が十分残されているということを、ご存じですか? 息を吐くことをここでは《blow》といいます。吐くというよりも「吹く」という感じに近い意味です。

同じ息を吐くでも、一番よろしくないのは、「息が漏れる」とか「息が抜ける」という感じのものです。吐く息には生きるエネルギーがあるわけですから、これが漏れたり抜けたりするのはよろしくありません。

もちろん、吐く息を使うには使えるだけの(吐くだけの)息の保有量が無くてはいけません。自分の中に息が無いのに息を吐くことなどは出来ませんので、たくさん身体の中には「息」を蓄えておかなければなりません。

たくさん吸って蓄えておき、たくさん吐けるだけの息を持ちましょうということです。それが、ここで言う「生きるためのエネルギー」です。タイヤも人の身体も同じ(空気を入れるということに関しては)です。(※呼吸法の詳しいことは「005\\\呼吸法は3つ(1)(2)(3)あります」のページをご覧ください)


たとえば、入院なんかいたしますと、「痛い思い」はたくさんさせられるわけです。入院する前の、救急車を呼ばれて乗る前と乗っている最中も、痛い思いやら、怖い思いやらを、たくさんいたします。

ぼくは今まで生きてきたうちで一度だけ、救急車に乗せられて病院に運び込まれ、そのまま2カ月間も入院をした経験があります。(自分の偏食が原因で)両脚に出来てしまった血栓が、心臓と肺に行ってしまいまして、両脚は紫色に腫れ上がるし、息は出来ないし、すさまじい咳!咳!咳!ということで、とうとう救急車に乗せられるハメになったわけです。

救急車が来るまでは、もうこのまま死ぬのだなと思って(それほど恐怖感はありませんでしたが)、そんな感じで自宅でぼーーーっとしていたのです。なんだか、身体は浮いてくるし(いよいよ幽体離脱?)、息がダラダラ漏れてゆく感じがしているものですから(息を引き取られる?)、「あぁ、このまま、こうやって死ぬんだな~・・」なんて考えていたわけです。


その時(これも自然現象的な行為なのだと思いましたが)ぼくは、なんだか自発的に「特殊な息の吐き方」をし始めたのでした。吐く息を、地面(寝ているわけですから床です)に向かって吹きまくる、自分の身体を包むように吹きまくる、息は吸わずに、とにかく吹きまくる、吹きまくる(blow)という感じでした。

ぼくはもう呼吸法だって、もうずいぶん長くおこなってきているわけですから、息を吐くblowというのは、別段「特殊な息の吐き方」ではありません。ただ、いつもの、同じ息を吐くといっても、普段は「こういう息の吐き方ってないよな~」「なんだろ?」などと、客観的かつ冷静な気持ちで自分を見ていたのです。

こんなあやしい「特殊な息の吐き方」の正体とは、きっとこれは、死ぬための準備の呼吸法に間違いない!と感じ始め、それで救急車の中では安心(変なハナシですけど)していたわけです。このように、自分が「意識的に死ねる」というのは極上な死に方なのだなぁと、どこかで(自分の中で)得意げになっていた自分がいたわけなのです。


それから2カ月間は、特別個室というところで(数人での大部屋は嫌なので個室に入りました)、ぼくがやっていたことは、救急車の中でずっとやっていた「特殊な息の吐き方」でした。特別個室は自分のための「呼吸法道場」のように使っていました。

気が付いたのは、吐く息には「痛み止め」の効果があったということです。

一番始めに運び込まれた救急治療室では、とにかく両脚に膨れ上がっている血栓が肺と心臓に行かないようにと、あちらこちらから注射を打たれたり管や点滴などを入れられたりですし、とにかく全身チューブだらけで、何かやる度に注射のようなチクとなることをされます。

何をされても、とにかくぼくは、ずーーーーっと「特殊な息の吐き方」をやっていました。寝ている時と食事をしている時以外ではずーっと、「特殊な息の吐き方」だけです。看護師さんや医師チームがが来てぼくの身体にいろいろやっている最中でも、とにかくとにかく「特殊な息の吐き方」だけをやっていたのです。


黒の丸いてんてん クウキの神様パラパラ


面白いことに、それをやっているうちは、何をされても、なんにも痛くないし、怖くもないし、平常な気分なわけです。2か月間の間のことを全部書くのは大変ですが、その入院期間の中では手術も当然ありました。

肋骨を開いて肺と心臓の中を冷却して動きを止めて、こびりついた血栓を除去する手術をしたのですが、手術中は麻酔が効いているので痛くはありません。手術が無事に終わり、麻酔が切れたって、痛み止めの薬を飲んでいれば痛くはありません。

問題は、退院2日前におこなう儀式です。肋骨を開いて手術をしたわけですから、胸の骨の真ん中に、タテにホッチキスのような金属がたくさん埋め込まれています。肋骨を開いたのですから、糸で縫うわけではなく、大きなホッチキスでガチャンガチャンと肋骨が開かないように止めているわけです。

その外にも、心臓に外からつながっているハートワイヤーという針金が出ていまして、入院中はずっとそういうものがブラブラしていたわけです。しかし退院するのあたって、ホッチキスと針金を抜かなければならないわけですが、その時は麻酔はいたしません。


いよいよ手術した担当医師が個室にやって来まして、「では今から抜きますよー」といいながら、ペンチのようなものや釘抜きのようなものやらでぼくの身体からそれらを引き抜きます。

「痛くないですかぁ?」「だいじょうぶですかぁ?」と言いながら、キコキコと抜いてゆきます。ぼくはずっとそういうことには気にしないで、ひたすらずっと、「特殊な息の吐き方」をやっているだけです。

オクチの中から、しゅーーー・しゅーーーっと、(音はぜんぜん立てませんが)息を長く遠いところに向かって吐いてゆきます。ホッチキスや針金のことなどは一切気にしないで、とにかく自分の呼吸だけに意識集中です。

やがて、担当医師から、「ハイ!終わりです~」と言われました。まぁ、とにかく、よかった・よかった、なのです。


ぼくは、自分が(運悪く)病気になって入院したというよりも、「特殊な息の吐き方」の修練のための「呼吸法道場」に入隊した、という印象しかありませんでしたし、それは今でもそう思っています。

ある武術訓練の中でも「痛くない呼吸法」というのがあるようです。ぼくはやったことはありませんが、呼吸を使って相手からのパンチを無力化させてしまうな練習です。ぼくはあまり興味はありませんが、呼吸というものはとても奥が深いものだなぁと思います。

安心して死ねるための「特殊な息の吐き方」の修練の入院でしたが、すでにもう退院して7年9カ月です。それで今はこのような記事を書いているのですから、やっぱり自分の吐く息の中には「生きるためのエネルギー」は十分ありましたね。

※もちろんぼくは始めから「特殊な息の吐き方」など、知ってはいませんでした。あのような自分が緊急な状況になったとき、自分の内側から自発的に出た呼吸だったのです。身体というものは、状況に合わせてこのように対応能力を出してくれるものだということを体験させてくれたのです。

★呼 吸 法 ワ ン ダ ー ラ ン ド///★

つづく


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