なんと、虫めづる姫君に出会ってしまった・・・
昨日は、3週間ぶりの治療日。
朝早くから、大学病院にむかう。
半日以上、病院に軟禁である。
こんな日は、帰り道に、何か楽しいことを用意しておく。
とはいえ、
美味しいものを食べるといっても、すぐにお腹を壊してしまうし、
映画も、それほど観たいものがないし、
景色のよいところに行こうにも、あいにくの雨と大量黄砂が降ってるし、
買い物といっても、物欲がないに等しくなってるし・・・。
てことで、
心を元気にするために、美術館に行くことにした。
フィンランドのテキスタイル:リュイユを見に行った。
ほとんど人がいない美術館。
監視役?のお姉さんたちの、視線が突き刺さるのがちょっと辛かったけど、深い色合いの織物を、顔がくっつかんばかりに近寄って見ることができ、なかなかに満足。
ショップでは、北欧デザインの切り絵の本が売られていて、買うかどうか、かなり迷ったほど、テキスタイルデザインに魅了されてしまった。
でも、自分の不器用さを思いだせるほどには、冷静だった私。
えらい。
なんだか、元気になり、調子にのったわたしは、続いて、牧野富太郎さんの植物標本の写真展を見に行くことにした。
雨と大量黄砂の中、思い切って、街中まで歩いて行った。
病院帰りに人ごみはちょっと苦手なんだが、その写真展が開かれているビルが、めちゃくちゃ素敵なので、それをも見たくなったのだ。
調子にのりすぎである。
そのビルは、「壽ビルディング」という名前で、ビルの入り口には、右から左に向けて、「グンィデルビ壽」と記されている。
その文字だけでも、わくわくするのに、ビルの中には、minaperuhonennのshopや、ほぼ日刊イトイ新聞運営のTOBICHI京都などが、入っている。
レトロなビルディングの雰囲気を損なわずに、カラフルさで新しさも醸し出しているこれらのお店。
見ているだけでも、心がはずむのだ。
ちなみに、牧野富太郎さんの植物標本写真展は、TOBICHI京都内で、行われていた。
展示作品の数は少ないものの、だからこそ、もっと見たいと思わせる。
レンズを通した作品と、そうでない作品とを見比べたくもなる。
テキスタイルにしろ、標本にしろ、写真にしろ、手段は違えど、その人の思いが伝わってくるものって、やっぱりすごい。
なんだか、嬉しくなる。
いやあ。
雨と大量黄砂に負けずにやってきて、よかった。
すてきなご褒美となった。
あとは、「グンィデルビ壽」を楽しみながら階段を降り、家路につくのみ。
と思っていたのに、見つけてしまった。
いや、目に飛び込んできた。
なんだかわからないが、気になる色彩が急に飛び込んできた。
TOBICHI京都のとなりには、児童書を扱うメリーゴーランドというお店があり、そこにはギャラリーも併設されていた。
そのギャラリーの窓から、何やら見えてしまったのだ。
小さなギャラリーには、お客さんが誰もいなかったので、ちょっと入りにくい。
というか、入れはするけど、出にくい。
そっと覗いてみると、お店の人が一人、椅子に座っている。
お店の人が一人だけなら、ざりがにのようにお尻からドアを出ていくのも、たやすそうや。
「ありがとうございました~~。」
と、お尻でドアを押し開ける時のセリフを、心の中で確認してから、入店する。
ギャラリーでは、「わたしのイモムシ 2023 桃山鈴子 個展」というのが、開催されていた。
イ モ ム シ
だったのか。
私の目に飛び込んできたのは、イモムシだったのか。
どうやら、作品は、全部イモムシのようだ。
しかも、すごく細かい。
そして、形も不思議。
美しい。
思わず、作品に近寄って、ガン見する。
いやいや。
イモムシ系は、かなり苦手であったはず。
庭の柚子の木に、毎年やってくる大量のアゲハの幼虫。
たくさん葉っぱを食べまくるのが悔しくて、毎年棒でつついている。
つかまえたり、つぶしたりすることはできないので、
せめてもの反撃である。
「わたしは、そんなに葉っぱを食べられて、怒ってるねんで!!」
との思いを、棒の先に思いっきり込めているのだ。
まっ、幼虫たちは、そんな攻撃をものともせず、臭いにおいを振りまきながら、黄色いツノを出すだけで、ハムハムハムハム葉っぱを食べ続ける。
「忙しいねんから、邪魔せんとって!!」
って、声が聞こえてきそう。
もっと、イモムシ記憶をさかのぼると、中学1年生の時の理科の教科書にいきつく。
その教科書には、さまざまな生物の写真があり、大量の毛虫が映っている1枚が、強烈に苦手やった。
そのページはとうぜん開くことができない。
そのページが含まれる単元の授業は、ちっとも頭に入ってこない。
そのページがあるばかりに、教科書を触れない時もあった。
みかねた友人が、「特訓や!!」と言って、休み時間にトレーニングをしてくれたほどである。
まずは、教科書を持つ。
次に、教科書を順番にめくる。
そして、例のページを開く。
そして、例の写真を見る。
最終的には、例の写真を触る。
という、過酷なトレーニング内容であった。
地獄のトレーニング。
当然、クリアできた記憶はない。
という、イモムシである。
なのに、なんでこんなに気になるのか。
自分にあきれつつも、作品に見入っていると、お店の人が話しかけてきた。
やばい。
帰りにくいやつやん。
うまいこと、お尻でドアを開けられるやろか。
イモムシのインパクトに圧倒されて、お店の人の存在をすっかり忘れていた。
「あの~。どこかで、この展示会のことをお知りになったのですか?」
「いっ、いえ。たまたま、通りがかっただけで・・・。」
「そうなんですね。この絵は、私が描いたものなんですが、」
えっ?お店の人とちがうかった。画家さんやった。
しかも、とてもかわいらしい。
イモムシとは、なかなかに結びつきにくい。
なんで、イモムシ。
私の頭の中は、この言葉でいっぱいになった。
どうやら、その方は、イモムシ画家と名のって
おられるらしい。
十分に名のれる。
色彩の美しさ。
気が遠くなるような細かい点々を使いこなす技術。
イモムシのひらきと呼ばれる、不思議な、なのに惹きつけられる形。
心和まされる用紙の風合い。
奇をてらわない展示の仕方。
そして、何よりその画家さんの熱量。
静かな、かわいらしい声で、作品について、イモムシについて語ってくれるのだ。
その方の、子どものころからの姿が見えるような、そんな語り口調である。
虫眼鏡で見ながら、ひたすら点々で描いていくそうだ。
できるだけ、本物と同じようにしたくて。
そう、おっしゃっていた。
わたしからすると、もはや、本物を超えてる。
イモムシにも、美術にも、ほとんど知識を持ち合わせていないわたし。
それでも、画家さんの熱量に押されて、びくつきながら質問をしてみる。
何か言わなあかんと思い、感想なんぞも言ってみる。
画家さんからは、すべてにびっくりすような答えが返ってくる。
もはや、問答である。
「そもさん。」「せっぱ。」である。
「なんだか、テキスタイルみたいですね。」
「あっ、テキスタイルにもしてるんですよ。イモムシの成長と、植物の成長とを合わせて、同じ紙の中にすべてをのせてみたんです。イモムシの成長ってね・・・・つづく・・・。」
「子どもたちが、すごく喜びそうですよね。」
「あっ、絵本も出したんです。子どもたちに向けての、ワークショップもやってるんですよ。この絵本にはお楽しみがあってね、・・・・・つづく・・・・。」
「この用紙の色がいいですよね。真っ白じゃないのが、イモムシの色を際立たせるっていうか・・・。」
「あっ、そうなんですよ。はじめは、珈琲や紅茶で染めてたんですが、ふとしたきっかけから、イモムシのフンで染めだすようになってね。それぞれのイモムシのフンで染めた用紙に、そのイモムシを描いているんですよ。そのきっかけというのは、・・・・・つづく・・・・。」
もう、何もかもかなわない。
ここに、画家さんの言葉が正確に記されてないことは、ご容赦願いたい。
なにしろ、圧倒されながらのやりとりだったので、そうでなくても貧しい記憶力が、ほぼほぼ機能できていなかったのだ。
いやはや。全部超えてくる。
想像を超えた答えが返ってくる。
ほんまもんのイモムシ画家さんだった。
イモムシを通して、イモムシ画家さんの思いが、超ストレートで、超重い球で、どしどしと伝わってくる。
この個展は、イモムシの絵を鑑賞するのではない。
イモムシの絵を通して、この桃山鈴子さんというイモムシ画家の存在を楽しむのだ。
もっと知りたくなる。
イモムシも、イモムシ画家さんも。
それにしても、人見知りの私にしては、初対面の人と、よくあんなにしゃべれたものだ。
きっと、腹黒い私とは対照的に、イモムシ画家さんが腹白い方だったからかもしれない。
腹黒と腹白でも、作品を通して出会えるんやな。
ふと、私の左腕を見ると、点滴後のばんそうこうがあった。
そういえば、今日は治療の日やった。
疲れてるはずの日やった。
ちょっとご褒美のつもりやった。
超えてきたわ。
イモムシ画家さん。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?