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ここ最近の変化と今後のこと

noteを毎日書くぞー!と気合を入れていたのはいつのことやら・・
毎日書き続けるというのは、ネタも見当たらないし、時間も無いし、なかなか難しいものだなと思っている卯月の終盤。

下書きのリストには10件以上あるのですが、なかなか続きを書くということをできずにいます。ものを書くというのは、一気にスラスラと精力的に吐き出すような感じなので、溜まっている何かをわーっと一気に放出する機会がないと、なんとなくうまくいきません。今日は久々に忘備録として、脳内の整理をしておこうと思います。

さて、今日はサンデーです。異常なるサンデーです。
国道の交通量が圧倒的に少ない休日です。

私の住む長野県小県郡長和町和田(村)という地区は、国道142号線の中山道が通り、美ヶ原高原と霧ヶ峰高原をつなぐビーナスラインの麓の小さな寒村です。全国どこの地域も同様なのかもしれませんが、ゴールデンウイークになると関東周辺、名古屋方面のナンバープレートをつけた車やバイクが大勢押し寄せて、観光地やコンビニ、道の駅や温泉などがにぎわいます。帰省客もすさまじく、村内ではふだん見かけることのない、若い人たちや子供たちの姿を目にします。

そんなどこにでもありそうな田舎町ですが、この一か月間で人々の生活は大きく様変わりしました。

3月中旬くらいまでは、ほとんど他人事、対岸の火事のように思っていた人たちが大半でしたが、4月に入って本格的な自粛ムードに突入しました。まず、公共の温泉が無期限の休館になりました。そして食堂がガラガラになり、店側も入店制限を設けたり、仲間でやっている無尽会も休止になりました。カフェやパン屋が四苦八苦し、対面販売を避けるようにしたり、営業時間を短縮するようになりました。当然のごとく、観光客や宿泊客もいなくなり、ホテルなどに納品していた八百屋など個人商店もキャンセルラッシュで休業。さらに、一般人では地区の集会が無くなったり、農協や安協の総会も無くなり、猟友会の広域合同駆除も延期になりました。

この地域では、都会の企業でお馴染みのテレワークで対応できるような業態はほとんど見当たりません。例えば宿泊業の場合、お客様に来ていただけないステイアットホームの状況ですと、何もやることがありません。そこで、厨房設備を活かして、お弁当屋をやり出す人たちが続出しています。来ていただけないのなら、送り込むしかないのです。

私の個人的な感覚ですと、テイクアウトやお弁当が更に普及するには、一層の手軽さが必要だと思います。私は平日は基本家食なので、外食やコンビニ弁当を食べることが無いため、毎食外食という人たちの気持ちがイマイチわかりませんが、外食が好きな人たちは、ゴミの片づけや食器洗いの心配が不要という利便性を好んでいるはずです。これが毎食テイクアウトになった場合、なんとなくゴミの後片付けが面倒になっていくのではないかなと思います。それと、何気に無料でもらってた水やお茶も自腹で購入しなければならないので、一食にかかる費用が上昇するはずです。

そういった観点から、同じ店から買えば買うほどお得になるようなサービス、サブスクリプションがもっと一般化するのかなと思っています。それとお店側も、もっとIoTを使ったお客様とのコミュニケーションをとるなどして、他の店舗との差別化を図るようになるのではないかと予想します。

また、私も従事している農業方面ですと、レタス農家やリンゴ農家が国人実習生を入手できなくて、生産が間に合わないという話を耳にします。しかし、周囲の知り合いは、ほとんど小規模個人農家ですから、さほど影響は受けていない状況にあります。私の場合、宿泊業、飲食業への個人販売が著しく減少してしまいましたが、そのぶん自宅待機人口が増えたため、小売りや直売所は爆売れ状態にあり、個人的には例年よりも野菜の売れ行きが好調であると感じています。

しかしながら、農業のネックは、いま需要があっても直ぐに増産することができません。レタスやアスパラがよく売れているから増産しようとしても、レタスは数か月後、アスパラに至っては数年後になってしまいます。

今後、中長期的にみて不安な点があるとすれば、運送業界がどのようになるかということです。こちらの地方で収穫され、農協に出荷された野菜は、大型トラックで都市部へと運ばれていきます。この流通網が止まってしまえば、地方の花や野菜農家はどうしようもなくなります。

今年は当初の予定通りに作付けをし、とりあえず今年一年間の収支を見てみるつもりです。本当に怖いのは来年です。消費動向や野菜価格の低下によっては、作付けの大幅な変更や転職も視野に入れなければなりません。

今後、子供たちは・・

とにかくもう、色々な業界がリンクしているので、連鎖的に生活がダウンしていくことが予想されます。私たち農業従事者が米や野菜を生産しても、消費者である製造業やサービス業の所得水準が下がれば、必然的なデフレに陥ります。もともと年金生活お爺ちゃん達の趣味的活動として営まれてきた瀕死の産業である第一次産業が、これ以上の製造原価の引き下げをできるわけもなく、一般市民はますますジリ貧になっていくことでしょう。

私たち大人は、この先どんな状況になろうとも、まあそれが人生だから仕方ないよねーと現状を受け入れ、適応することができますが、いま一番気がかりなのは子供たちの将来です。

田舎の子供たちは、高校を卒業すると、こぞって東京に出荷されていきます。東京には日本の子供たちの夢と将来がつまっていました。私の中学時代の同級生たちも進学と就職で東京に出て行って、今では誰もが知っている大手大企業で企業戦士として働いています。東京には若者たちが求めている全てがあふれていました。それが今、変わろうとしているわけです。

有名なショップやイベントは軒並み自粛で、人で溢れかえっていた渋谷や池袋は閑散とし、憧れだったはずの大都会が、ただただ生活するのに不便で、多すぎる人間たちをより分けることで手一杯になってしまえば、若者たちはどこへ向かうのだろう?と気がかりになっています。

また、勉学だけに限らず、サッカーや野球などのスポーツ選手を目指して、それに一生を捧げてきた人たちにとって、この現状は受け入れがたいことでしょう。私のような、ある意味では研究職のような仕事では、年を追うごとに様々な発見があり、楽しみが増えていくわけですが、スポーツアスリートにとっては、今、この瞬間が運動能力のピーク!という人たちも大勢いることでしょう。それこそ、東京オリンピックに出場するはずだった人々がそうです。

一番懸念するのは、そういったことから人生に絶望して、マイナスな方向、ネガティブな方向へ流れてしまう人たちが、いったいどれだけ存在しているのかということです。

かつて太平洋戦争があり、夢や希望を絶たれた子供たちが大勢いたはずです。彼らが、どのようにして人生を回復できたのかを知ることが、今後の教育に有効であると思います。その当時は田舎から上京するというのは、まだ一般的では無かったため一概に比較することはできませんが、諸外国で戦争や紛争を経験した人々の、その後の生き方を研究してみることが大事だと思います。

ちなみに、今は亡き私の曽祖父母と祖父母は戦争経験者でしたが、こんな山奥の田舎村では、大した夢も希望も無かったそうです。友達で満州やブラジルに開拓移民で行った人たちがいたそうですが、それを羨ましいとか思ったこともなく、日々の山仕事を淡々とこなして家族を養っていただけだそうです。しかし、亡き父はそんな貧困家庭に生まれたがために、大学進学のさいに、入学金を支払うことができず、希望していた明治大学に入学することができなかったと恨み節でした。しかしながら、その父が自身の復讐を果たすために、息子である私には潤沢に投資をしてくれて、私は希望していたカナダへの語学留学をすることもできました。

そういった実例をもとにすると、今現在の世の中の動乱の影響を受けるのは50年、100年後の子供たちになるのでしょうが、そんな先のことまで考えて行動できる大人たちの一人でありたいと思います。

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