当たりを引きにいく
最近、noteに書く内容をそこまで吟味しないようにしている。
外部に公開されるものはおしなべて作品となるような気がするため、それなりに読む人に気を使って文章を書いていたのだけど、それを意識して止めるようにした。
これは、最近読んでる他人のコラムを読んで、自分にとってのnoteの存在意義を把握し直したからでもある。
詰まるところ、このnoteの目的は他人を楽しませるというよりは、自分のアウトプット練習場としての意味合いで始めたものだった。
副次的な要素として「整形された文章を書く」というのもあったのだけど、いつの間にか主と副が逆転していたっぽい。
というわけで、今は殆ど文章の構成をを考えずに、それこそ脳直で思考を書いている。
多分こっちの方が良い。良いものを産み出そうとして立ち止まるより、たくさん作って反省した方が経験値的に美味しい。
それに、頑張って書いたとてそれに見合う評価が返ってくることは基本的にない。
少なくともこのnoteに関しては、他者評価を殆ど目的としていないので余り関係ないのだけど、創作がウケるかというのは殆どくじみたいなものだなと最近は思っている。
もちろん素の能力を高めればより人の目に触れやすくもなるけど、それと同じくらい運もあると思う。
いや、本当のところとしては、良いものが正当に評価されるべきだし、実際は結構そうなっているんだろうけど、自分の気持ちとしては運ゲーみたいなもの、と捉えたいと考えている。
これは、自分が頑張って作った自信作が全然ウケなかった時の予防線みたいなものだ。
その人が作品にかけた労力と、それが他人に刺さるかという概念の間には深い溝がある。
だからこそ、他人にウケるかどうかをあんまり真剣に考えない方がいいのだと思う。
作品をつくった結果として他人にウケたということはあっても、他人にウケる作品を作ろう、という気持ちでいるのは結構危険だ。
少なくとも自分は一度、そういう心持ちで作品を描いて、失敗だったなと感じた経験がある。
詰まるところ、評価を他者に委ねるても、自分が納得できていないと気持ち悪すぎたのだ。それ以来、評価軸を自分にして作品を作ることを念頭に置いている。
そういう意味では、他人を楽しませるためにものづくりをしてる人は凄い。
自分だったら逃げ出してるだろうな。ボクシングで言うインファイト的な。
ここまで散々と他者評価なんか気にすんなといった意味合いの文を書いたけど、それでもやっぱり反応があるのは嬉しい。
それは人間的には当然のことだし、わざわざ避けるようなことでもない。
「評価され」の正当な方法は、とにかくたくさんくじを引くことに尽きると思う。確率が万文の1でも、引くか引かないかでは問題の土俵すら代わる。
そう信じてくじをもっと引いていきたいなと思う。
思ってるだけですが…。
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