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1球目|娘に三輪車を買う・5 菊地家

 彩菜を寝かしつけた後、私は、さあ、いよいよとばかりにノートパソコンを食卓で広げた。
 妻、恵理との共用パソコンだ。自室には持っていかず、リビングで使用することを我が家のルールとしている。なので、やましい用途で使用はできない。
 実のところ、パソコンの知識に於いては、恵理の方が断然詳しい。もし不審な動きを見せたならば、立ち所にその行動を解析されてしまうだろう。

 私たちは、元同僚。恵理とは、技術部で働く堅物たちとの会議で出会った。
 その頃の恵理は、バリバリのエンジニアだった。私は、システム推進部として、彼女らの仕事をリソース面でサポートした。
 クライアントの要求に応じた屋台骨の資材調達から、サーバーの容量に見合ったシステムの構築を、契約してくれた見積もり予算内に抑える。それが今も変わらぬ私の日常だ。

 当時、新規開拓で地方出張が立て続いた時期があり、よくマネジメントと交渉役を担って技術部に同行した。その時に恵理とは色々とあったのだ。

 彼女は面白い人だった。コードを単なるロジックとして見ていない。凡人には理解できない事だが、例えるならば、コンピューターと対話しながらシステムのご機嫌を取る様な人だった。
 だから、時には技術部の一員でありながら、堅物連中と意見が折り合わない事があった。『まあまあ』と仲裁に入った後には、恵理の愚痴に付き合う機会が増えた。そうこうしている内に私たちは惹かれ合った。恥ずかしながら、それが私と恵理の馴れ初めだ。
 
 私は今も、技術部の言い分にはあまり首を突っ込まない。と言うか、そこまでは口出しさせてくれない。
 堅物なエンジニアが言う、『後は任せておけ』という言葉に全幅の信頼を置くことにしたからだ。

 なので、私はあまり、コンピューターの仕組みには詳しくない。
 だが、いま目の前にあるパソコンがどれぐらいのスペックを持った物なのかという事ぐらいは私にも分かる。これはごく一般的な家庭用パソコンだ。メモリもCPUも、中程度の機能しか備えていない。
 彼女はもう、ハイスペックのパソコンを必要としなかった。恵理は結婚して、スッパリとエンジニアの世界から足を洗ったのだ。
 それを決めた時の恵理は、まるで躊躇いもなく、何なら清々したという顔を見せたのを今でも思い出す。少なくとも私にはそう見えた。

「あれー?珍しい。宿題?」
 キッチンの方から伸ばしてきた延長コードを跨いで、恵理が画面を覗き込む。
「ああ!ヤフーの画面だ。懐かしい」
 私は、細かい文字の一つ一つとにらめっこしながら、打ち間違いがないか慎重に設定を確認していた。
「いや、仕事じゃないよ。これからヤフオクのアカウントを作ろうと思ってね」
「あ、アレね?三輪車。そっかあ。ヤフオクで落とす事にしたんだね」
 なるほどそういう事かとばかりに恵理が言った。そう言えば、トイザらスで『大丈夫だよ』とは伝えたが、どう大丈夫なのかは明かしていなかった。
「この最終手段は坂下の入れ知恵だよ。本当は新品を用意してやりたかったんだけどね。この際、しょうがないな」
「あ!懐かしい名前。サカちゃん元気してる?相変わらずバカ?」
 恵理は、坂下とも気心が知れていた。私たち夫婦が付き合い始めた頃は、よく3人で飲みに行ったものだ。
「ああ。相変わらずバカで煙い。大体からしてあいつは出世欲がないんだ。出世よりもタバコを選んだ。奥さんよりもタバコを愛してる」
「相変わらずねー!やっぱサカちゃんイイわー。今度ウチに呼びなよー。歓迎する」
「じゃあさ、灰皿用意しておかなきゃな」
「それはイヤ」
 お互い独身の、まだ若かったあの頃を思い出して思わず笑い合った。

「うん。…これでよし。えっと…クレジットカードはメインカードを登録するけどいい?」
「うん。いいよー」
 恵理は冷蔵庫から梅酒サワーの缶を取り出し、プシュッと開けた。画面を一瞥してからまた延長コードを跨いだ。
「私、もうちょっと本を読んだら先に寝ちゃうからねー」
「うん。分かったー」
「ショウちゃんも、あまり夜更かししないで早く寝なさいよー」
「はーい」
「あと、余計な物をポチらないように!いいですか」
「わかってますよー」
「よろしい」
 おやすみなさいの替わりにそう言い残し、ニコリと目をつぶり、頭を垂れた。
 恵理は、彩菜の前では私のことを『パパ』と呼ぶくせに、2人だけの時には、私の名前《翔一》の愛称で『ショウちゃん』と呼ぶ。まるで子供扱いだ。
 廊下への扉が静かに閉まり、スリッパの音が遠ざかる。玄関からの冷えた空気が少し顔を撫でた。

「さて。《へんしん!サンライダー》は…と。おお!結構出品されているな。なになに…うん」
 私は、数ある商品の写真からそれぞれを吟味していった。各出品者は、5~10枚の写真を、付属品なども含めて様々なアングルでアップしていた。
 拡大写真を見れば、それはもう、紛れもなく中古品ということが顕になる。しかも三輪車ともなると、幼児が外で乗り回す物だ。その傷はそこそこ深く、また、あちこちにうっすらとサビが浮いていた。
 私は、彩菜のプレゼントには出来るだけ綺麗な物をと、眠たい目をこらし、閲覧して回った。そして、比較的状態が綺麗な4点の出品者に、ウォッチの☆(注目ボタン)をクリックした。

 除外した商品には、惜しい物もあった。紹介写真が引きの画像しかないのだ。枚数も少ない。一見、美品の様にも見えるが、見えない所に思わぬ不備や傷、汚れなどが隠れている恐れがある。競り値が安かったので少し躊躇ったが、思い切って除外した。
 あと、写真のロケーションで損をしている出品もあった。何故、もっと明るい日光の下で撮影しなかったのか?背景は薄暗いガレージ。薄汚れた打ちっぱなしのコンクリートの中で撮られた写真は、どう見ても鮮やかに見えない。不思議とそういう商品が多い。そんなロケーションの下では、残念ながら、よりくすんで汚れて見えた。

 次に私は、絞った4点の評価を見て回った。どの出品者も概ね、☆90%を超える高評価のようであった。これには、それぞれの出品数に大きな違いが有った。
 何百もの出品経験のある出品者は、その分母が大きい分、冷やかしや難癖を付ける落札者にも多く出くわしたのだろう。百分率が少し削れるのは致し方ない事と判断できる。
 だが、1人だけ。《非常に悪い》の欄に赤い数字が書かれていた出品者がいた。その数字は12だった。つまり、12人の落札者が(あるいは出品者が)、《非常に悪い》と評価したことを意味している。総合評価が95%を超えているにも拘らずだ。
 きっと、この出品者には何かしらの問題が潜んでいる。迷わず除外した。

 注目を他の3人に絞った。その内の1人、とても気になる出品者がいた。
 過去の出品数を見ると0と表示されている。つまりこれまで、この《へんしん!サンライダー》しか出品経験がない、ずぶの素人という事だ。
 だがそのくせ、落札された経験もないのに総合評価は100%を得ている。これは何故か?
 その謎は、評価全体の内訳を見ることで理解できた。この評価の欄は、落札数も合わせて計算されているのだ。
 この出品者は、過去、バイヤーとしてオークションに参加し、多くの物を競り落としていた。出品数がないのに引き換え、落札数は2桁を超えていた。
 写真も、良く晴れた日の明るい芝生を背景に撮られており、とても色鮮やかで映えている。寄りの撮影で、詳細を包み隠さず複数のアングルで説明していた。何より、お子さんが楽しそうに乗る姿(顔は巧いこと画面外に出るようにトリミングしていた)を1枚撮影しているのが何とも微笑ましい。私は俄然、この出品者が気になった。

 そして、最後に。3人に絞った出品者の商品説明を見て回った。
 これは、少し下の方までページをスクロールしないと出てこない。なので、各出品者の個性は、見開きを一見しただけでは気付かないことも有る。
 各出品者のその欄。各々の出品説明文の差異をじっくりと見極めて。
 その上で、やはり先ほどの、あの《ずぶの素人》の出品者がとても気になった。そこには、他の出品者には見られない《人間臭さ》が感じられた。

 アカウント名は《1000fungoes》。私は、その人のから、娘の誕生日プレゼントを買うことに決めた。
 もう、誰とも競るつもりはなかった。入札ではない。設定されている即決価格に了承して、オークションに即時決着をつけた。

こんな私にサポートしてくれるなんて奇特な方がいらっしゃいましたら、それはとてもありがたい話です。遠慮なく今後の創作の糧とさせていただきます!