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1球目|娘に三輪車を買う・6 大沢家

「それじゃな!ママ。ご馳走ちそうさん!」
「おう!また来な。奥さんとケンカしたら、看板しまうまでは私が相手してやんよ」
「はっはっ!今日はもう来ねえよババア」
「いいや来るね。来る方に500円!」
 《スナックきよみ》のきよみママが、カウンタードアを押し開けて出口まで出てきた。およそ客を見送る態度ではない。
「来~る~、きっと来る~きっと来る~、来る方に500え~ん」
 ママが目の前に両手をかざし、いつかの流行曲に乗せて催眠術の様な手遊びをした。
「きゃ~!来ないでー!…って、やらせんなよ。はいはい寄るな!またっから。明日にでもな」
 ダウンジャケットを羽織ると、出入り口に一番近い席に座っていた電気屋のジンさんと自治会長の梶本かじもとさんもその賭けにベットする。
『面白え。俺も500円乗った!』
『俺は1000円!』
 ドアのカウベルを鳴らしながら、そんな奴らを鼻であしらった。
「はっ!勝手に言ってやがれ。今回は俺の総取りだ。次来る時にはてめえら、いくらだ?千に5百に5百…いいか?2000円ちゃんと用意しとけよ?」
『泣きっツラ拭いてやるからまた来い!』
「来ねえよ!」

 じゃあなと手を振ってドアを閉めると、暖房とアルコールで火照ほてった頬に、冷たい木枯らしが左フックを入れてきた。
 スナックは防音設計がしっかりしているので、ドアを閉めればもう国道の交通音の方がやかましかった。だが、誰が言ったか『あばよ!また来な』とカラオケマイクのくぐもった声は微かに聞こえた。
 また値が釣り上がった。覚えておかなくてはならない。

 その晩は、程々のところでやめておいた。きよみママが言った様に、先日飲み過ぎて女房の幸子さちこと喧嘩になったばかりだ。
「うるせえ!二度と帰るか」と女房に捨て台詞を吐いて《スナックきよみ》に出戻ったのが、情けない話だがつい先週の事。その日は結局、追い酒を一杯あおった後、店々がこぞって暖簾のれんを片付ける頃にこっそり帰宅したのだが。

 思い返してみれば、確かにあの日は飲み過ぎた。それに比べれば、今日の酔いはまだまだ軽い。
   酔いは良い良い宵時雨よいしぐれ。間違っても縁切寺えんきりでらには駆け込んじゃいけねえよってなモンだ。
 3丁目の角を曲がるときには意気揚々。だが2丁目を過ぎる頃には少しずつ酔いもめ始め、玄関の引き戸に手をかける時にはすっかり気が小さくなって、忍びの如く衣擦きぬずれの音も立てなかった。
   まったく…。誰が家の主なんだか分ったもんじゃねえや。
 そう思いながらも、ひんやりとした三和土たたきに脱いだスニーカーをひっそりと揃えた。

 時刻はまだ夜更け前。22時を少し過ぎた頃だった。翌日は日曜日だったので、娘の麻里奈まりなは幼稚園が休みだった。だが、俺が飲みに出ると分かっていたので、平日と変わらず、2人ともとっくに食事を済ませて早めに寝てしまっていた。
 幸子お得意の、子供でも食べられるひどく甘口のカレーだ。シナモンに似た甘い香りがいまだ部屋中を漂っている。辛口の俺から言わせてもらえば、あれはカレーではない。シチューに近い。

 小さく光る豆電球が、ふすまの隙間から寝室を覗かせる。布団にできた大小2つの山がオレンジ色にほんのり照らされていた。
 俺はその1cm程の隙間をそっと閉め、居間の電気を点ける。そして石油ファンヒーターに火を入れた。ジーという音の後にボッと青い炎が灯った。
 2人はどうやら深い眠りの中に居るようだ。起きてはこない。ならば大丈夫だろう?とばかりに、冷蔵庫を静かに開けて缶ビールを取り出した。

 その日はテレビのリモコンではなく、珍しくノートパソコンを引っ張り出した。先日、幸子と一緒にヤフオクに出品したのをふと思い出したからだ。出品した品物は、麻里奈の三輪車だった。

 ヤフオクに出品するまでには、少々悶着もんちゃくがあった。
 先日、リサイクル店に買い取ってもらおうと持っていったところ、とんでもなく足元を見られたのが事の始まりだった。

「1000円ってそりゃねえだろアンタ。よく見ろ!傷も…そりゃあさ、細かいのはよく見りゃアチコチに有るけどよ。ちょっとは大目に見ろよ。ほら目を細めりゃあ全然キレイなもんだろうが?」
『いやあ…。とは言ってもですねお客さん。市場しじょうを調べてみても買取額はまあ…こんな所になりますよ。それに、せめて箱を残しておいてほしかったなあ。そこが残念』
「箱だあ?うーん…箱なあ。そうか箱がないとそんなに価値が落ちるもんなのか?」
『まあ…そんなモンです』
「…いや!そうは言ってもだなアンタ!1000円で買い取って、明日には5000円で店頭に並べたりするんだろ?」
『いや…まあ、ちょっと値段は明かせませんが。それが私どもの商売ですから…。ねえ』
「ほれみろ。ズルいなあ!アコギだよ」
『人聞きが悪い事を言わんでくださいよお客さん。だったらあなたもリサイクル業をやったらいい』
「ああ!もういいもういい!わかったよ。そういう事を言うんだったそうさせてもらわあ!こっちにも意地ってモンがあらあ。アンタにはもう売らねえ!」

 そんな感じの問答だった。まったく腹が立つ。今でもハッキリ思い出す。

 売れなかった三輪車をかたわらに、持ち帰った愚痴をつらつらと幸子に述べていたらいつものようにこう言われた。
「まったく…あんたはいっつもそう!気が短い!人と話し合う時にはもっと心おだやかに!」
 溜息ためいき交じりに説教をされた。

「うるせえ。愛する娘の三輪車に1000円って事はねえだろ」
「ハァ……そんで。値段交渉はしてみたの?」
「頭に来てそれどころじゃなかったってんだよ馬鹿野郎バーローが」
「しなきゃ駄目じゃないの!何やってんだいアンタは…。駆け引きとか根気って言葉があるでしょう!」
「だってよお…」

 まあ、そんなこんなの話し合いが色々あって。幸子が言い出した。
「そんなに言うんだったら!そのリサイクル屋さんが言う通り、あんたが自分で売ったら良いじゃないの」
「アイツみたいに中古屋を開けってのかよ?」
「違うわよ!話をちゃんと聞きなさいって。ヤフオクよ!ヤフオクで売るの!」
「何?ヤフオクだと!?」

 そんな経緯があって一昨日おとつい、ヤフオクに麻里奈の三輪車《へんしん!サンライダー》を出品することになったのだ。
 アカウント名は、所属する草野球のチーム名から《1000fungoes》という名前を借りた。意味は千本ノック。不屈の魂と折れぬ心がこの言葉には込められている。
 このアカウントを使うのはとても久しぶりだ。以前はよく野球関連のグッズを集めるのに利用したものだったが、出品者としてログインするのは今回が初めてだった。

 マイオク(マイアカウントページ)を開くなり、思わず息を呑む。
「おお…!」という声がおのずと漏れ、そのまま口元に笑みを浮かべた。

『おめでとうございます!!あなたの商品が落札されました』

 そこには思っても見なかった表示がポップアップされていたのだ。一瞬、胸が高鳴った。

   だが、一体どういう事だ?
 1つの謎が浮上した。冷静に考えてみるとおかしい。オークション終了は1週間後に設定しておいたはずだったのだが…。なぜ急にオークションは終了してしまったのか?

 しかしその疑問も束の間。届いたメールやページに現れた詳細を調べてみて、その理由をすぐに解明できた。
 そう。この落札者は、俺が設定した《即決金額》をポンと支払ったのだ。

「くっくっくっ…ざまあみやがれ、あの中古屋め!てめえが5000で売るところを俺は1万で売ってやったぞ!がっはっはっ!それも瞬殺だ。参ったかべらぼうめが!」
 興奮で少し声を荒らげてしまった。

「…もう、何なの騒々しい。目が覚めちゃったじゃないのよ」
 幸い麻里奈はまだ夢の中の様だったが、笑い声で幸子を起こしてしまった。
「大変だ、さっちゃん!三輪車が売れた!」
「え!?うそ。早っ!」
 俺は、届いたメールやマイオクページを開いては閉じ、また開いては閉じ、これまでに味わった事がない新しい喜びに打ち震えた。


こんな私にサポートしてくれるなんて奇特な方がいらっしゃいましたら、それはとてもありがたい話です。遠慮なく今後の創作の糧とさせていただきます!