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1球目|娘に三輪車を買う・1 菊地家
昨年の12月の話だ。
もうすぐ誕生日を迎える娘が、プレゼントに《ある特殊な自転車》を欲しがった。
お向かいに住む中村さんのお嬢さんが、玄関前の私道で助走を付けて走り回っているのを常々見ているからだろう。娘の彩菜(あやな)よりも2つほど年上だ。
名前は確か、ミカちゃんという名前だ。ハツラツとした子で、休日に玄関前で会えば元気に挨拶をしてくれる。
「おじさんこんにちは!」
「ああ。こんにちは。いつも元気だね」
「うん!」
この子は彩菜の面倒をよく見てくれる。
我が家から数ブロック先にある小さな公園では、妻が見ていない隙に危ないブランコに近づきはしないか。あるいは、ジャングルジムに無理して登ってしまわないように見守ってくれたり、鉄棒にぶら下がろうとしている時には、届くように少し抱っこをして掴まらせてくれたりするのだ。
または、砂場遊びをする時には、作った泥団子をそのまま食べてしまわない様に「これは食べちゃだめだよ」と教えてくれるのだそうだ。妻からそう聞いた。
当たり前の事の様だが、面倒見の良いお姉さんが一緒に遊んでくれるというのは、幼児を持つ親として非常に頼もしく心強い。単純な話だが、そういった子がいてくれなければ、妻が見ていない隙に、本当に泥団子を食べてしまうかもしれないのだから。
ミカちゃんにはとても助けられている。少なくとも妻はそう言っていた。
私も、会えば「いつもアヤと遊んでくれてありがとうね」と感謝の気持ちを伝えている。「どういたしまして」とややはにかみながらミカちゃんも応える。お行儀も良い。
今度、中村さんに会ったら、娘の教育のコツを教えてもらおうかなと思う。
彩菜も早いものでもう2歳。ついこの間までおむつをしていた赤ん坊だと思っていたのだが、来年にはもう幼稚園の入園準備をしなくてはならない。そんな頃の事だった。
入る幼稚園はもう決まっていた。歩いて数分のところにある。と言うよりも、その幼稚園があるから結婚してここに引っ越して来たようなものだった。そして卒園した後には、数百メートル圏内に小学校も中学校もある。
ご近所さんにも恵まれて、本当にここへ引っ越してきて良かったと思う。
例えもし、子供に恵まれなかったとしてもきっと満足していただろう。幼稚園と学校に囲まれたこの地域には若さとエネルギーが満ちている。
けれど、ここに越してきた事が良かったのかどうかは、子に恵まれなかった立場になってみないと本当には理解らないのかもしれない。
もしそうであった場合、子を持つ親が多いこの地域では、それらの家庭を垣間見ることで、いずれは嫉妬の感情に苛まれることになる気がする。立場が違えば、私たち夫婦も、もっと閑静な場所を選んだのかもしれない。
まあ、幸いそうでなかったのだから、そんなことを考えてみても意味はないのだが。
もしそうだった場合、遅かれ早かれ、妻も「引っ越したい」と言い出すのかもしれないな。付ける理由はどうであれ。
女のそういう気持ちは、私にだって容易に想像がつく。
我が家に彩菜が産まれて来てくれて、本当に良かった。ゆくゆくは微妙な女心のサポートを、鈍感な私に代わって彩菜がしてくれるだろう。
その時には、私も肩身が狭い思いをするのかもしれないが。それはそれで、一つの幸せの形なのだろうと思っている。
娘の彩菜は、将来どういう女性に成長するのだろうか?できれば、中村さんとこのミカちゃんの様なしっかり者に育ってくれれば良いが。
でも、このままでは、ミカちゃんにおんぶに抱っこで、甘えん坊のまま育ってしまうかもしれないな。
一人っ子で長女なのだが、まるで末っ子の様に道しるべを差し出されて育っている。下に弟か妹でもできれば、長女気質が目を覚まして、また変わるのかもしれないが。
いずれにしても、それはまだ未来の事なので今はまだどうなるかなんてわからない。
そんな日頃からお世話になっている中村さんとこのミカちゃんだが、近頃、《ストライダー》というペダル無しの蹴り押し自転車を我が家との間の私道で乗り出した。私はそれまで知らなかったが、巷の幼児の間で流行っている自転車らしい。
彩菜の誕生日が近づいてきたある日曜の昼下がり。玄関先で会った中村さんのご主人に聞いてみた。
「いきなり補助輪無しですか!スパルタですね!」
するとご主人はこう言った。
「やあ、菊地さん。こんにちは。いや、持論なんですがね。補助輪があると逆にね、安定に甘えちゃって、いらない恐怖心が芽生えちゃうと思うんですよ。だからね、ミカには三輪車も乗せていません。はじめから両足でバランスを取るという感覚を先に身に着けちゃった方が早いと思いませんか?」
なるほど。と思う
「ははは。ミカちゃんは運動神経バツグンですからね!うちの娘はどうだかな?そう簡単にいく気がしません。臆病ですから」
「まぁ、確かに、私も心を鬼にしてという所はありますけどね。転んだ膝の擦り傷の分、覚えも早いもんですよ。ミカも早く私とサイクリングに行きたいと思っているみたいですしね」
中村さんは社交辞令的に応える。
彩菜の臆病さ加減も勘案し、比べて自分の娘は根性もあって優れているという気持ちをうっすら感じ取れる。
まぁ、実際そうであろう。旦那さんが自慢するだけの事はある。ミカちゃんが転んで泣いている姿を私は見たことがない。膝小僧の絆創膏が少し赤く滲んでいるのはやや痛々しいが。
「そう言えば…」中村さんが呟いた。
「ああそうそう!先週トイザらスで見たな。何か、基本スタイルは三輪車なんだけど、子どもの成長に合わせて、ほら、あのミカが乗っているストライダーと同じ形の。あのペダル無し自転車にも変形させられるって商品がありましたよ」
「おお!ホントに?それはいい!」
私は、素直に感嘆した。現在は色々なものが開発されているものだ。私が幼少の頃とは違い、実に様々なニーズに応えて世の中は回っている。
それまでは、三輪車を買い与えるつもりでいた。しかし、どうせすぐに乗らなくなってしまうものをわざわざ買うのもどうか?とも思っていた。
場所も取る物だし、すぐに卒業して自転車を欲しがるに違いない。中村さんも、もしかしたらそういう本音を漏らしたいのかもしれない。そんな親の都合をわざわざ口に出したりはしないが。
ミカちゃんはスイスイとその《ストライダー》を蹴り進んでいる。
「あやちゃんにはちょっとまだむりだよー」
少し遠ざかるミカちゃんの声と姿を、彩菜は指を咥えて見送っていた。
こんな私にサポートしてくれるなんて奇特な方がいらっしゃいましたら、それはとてもありがたい話です。遠慮なく今後の創作の糧とさせていただきます!