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事務職の生存戦略

「これまで」と「これまで」の間から

 私たちにとって、これまでの「働き方」とは一体、なんだったのだろう。

 魅力的なスローガン、不安を煽る予測、「改革」の大号令、そして「これまで」と「これから」を分断させる言葉の弾丸を浴びてもなお、私たちの身体はまるでゾンビのように、一日、また一日と「これまで」と「これから」の間をほとんど変わらない歩調で渡り歩いていた。

 けれど「習慣」というウィルスによりゾンビとなった私たちの身体は、まさに今、別のウィルスの脅威にさらされている。

 コロナウィルスは、私たちの働き方を大きく変えていて、事務職である私自身、その変化を日々実感している。同じ思いをしている人だって少なくないはずだ。

 リモートワークの導入、書類や印鑑などの電子化、定型業務の自動化の影響により、これまで「当たり前」とされていたものが次々と地盤沈下していく。

 そして、この変化の中で生み出される呆然自失にも似た感覚が私たちを最初の問いに連れ戻す。

 これまでの「働き方」とは一体、なんだったのだろう、と。

 だから、これから書くことは、そんな疑問に対する明確な回答でもなければ、闇雲な悲観論でも、力強い希望でもない。

 いうなればただの「整理」。

 事務職という私の職種に対する、私なりの「整理」だ。

 そして、その中から、これからの変化に対して有益な「なにか」を探していく賭け事みたいな作業だと思う。

事務職、あるいは一般職の誕生と衰弱

 一般に「事務職」というのは「一般職」に属する。前者は職種であり、後者は雇用契約の種類のことを言う。「一般職」と区別する雇用契約に「総合職」というものがある。これらの違いは例えば、転勤の有無であったり、職務内容という点でいえば「総合職」は企業活動の基幹といえる職務に携わり、「一般職」はその補助という見方が広くされている。

 そして、この区分けの歴史は非常に短い。

 労働問題を研究している濱口桂一郎氏(『働く女子の運命』)によれば以下のような事情がある。

「大企業を中心とし、男女雇用均等法に対応すべく導入されたのがコース別雇用管理といわれるものです。これは通常、総合職と呼ばれる基幹的な業務に従事する職種と、一般職と呼ばれる補助的な業務に従事する職種を区分し、それぞれに対応する人事制度を用意するというものです。「職種」と言っても(…)要はそれまでの男性正社員の働き方と女性正社員の働き方をコースとして明確化したものに過ぎません。(…)男女平等法制に対応した人事制度という形を整えたわけです。」

 氏の言葉を再び借りるのであれば

「女性を総合職にしないために、企業がわざわざ転勤要件を要求したという面もあったようです」

 という点から、この区分けは建前としては「基幹業務」と「補助的な業務」というものがあるけれども、本音は男女との性別役割を温存しようとした中で生まれたものに過ぎないということが言えると思う。

 このことは裏を返せば「男性は家族を養えるだけの満足な年収がある」ということを想定しており(いわゆる「片稼ぎ正社員モデル」)、昨今の経済状況を鑑みるに、先の想定も、もはや時代錯誤としか思えないことは明らかだろう。(例えば、久本憲夫『新・正社員論』p.45など)

 要するに私がここで述べたいのは「総合職」と「一般職」という区分や職種における差別化は、すでに瓦解しているのではないか、ということだ。

「補助」の二分類

 もちろん、上記のことを述べたところで「では変えましょう!なにもかもを!」とは(当然ながら)ならない。

 前提が瓦解しているとはいえ「一般職」があくまでも「補助的な業務」であるという認識を急に変えることはできないだろう。

 では、何ができるというのだろう。

 その問いに対する答えのヒントとしてアメリカの経済学者ダグラス・ラミスの言葉を引用しよう。

「卵は内側から破らねばならない」

 新しいものを作り出すためには、形式やハードな面を壊すことではなく、ソフトな面から変革しなければならない、という意味だ。

 そして、この言葉に従い、私は改めて「補助的な業務」について考えていきたい。 

 さて「補助的な業務」について、私は二つの見方があると思う。

 一つは、後追い的な補助。

 人手や業務時間の都合上、「時間の空いてそうな人にやってもらうような業務」は、この「後追い的な補助」に属するだろう。

 もう一つは先行する補助。

 後追い的な補助も数をこなせばパターンがみえてくると思う。

 「あ、この人が出すこの書類、いつもここのあたりにミスがあるんだよなあ」とか「月初は、この人からこういう連絡がよく来るな」とか、そういったやつ。

 そして誰もが思う。

「あ、対応するの面倒だな」と。

 そうであればこそ、そもそも対応する必要がなくなるような仕組みを作ってしまえば、この面倒さを解消できる。

 言ってしまえば、先行する補助というのは、この「面倒さ」を解消する取り組みのことだ。

 例えば「仕組みを変える」という言い方ができるだろう。

 ミスが起きる、トラブルが発生するというのは、当事者個人の資質的なところもあるだろうけれど、ミスが発生しやすいシステム自体の見直しも、なされなければならない。

 ただ、この先行する補助は「一般職」に属する人たちがどの職場においても、取り組んできたことだろう。

 私はこの「先行する補助」が、現在の厄災による変化や、その後においてもこれまで以上に必要性が高まることではないかと思っている。

アフターコロナで一般職は…

 これまで見てきたとおり「総合職」「一般職」という区分けの耐用年数はとっくに過ぎていることは言うまでもない。

 また「基幹業務」や「補助業務」という区分けも「片稼ぎ正社員モデル」というモデルの温存を念頭に仕切られたものだというのは、再び論じるまでもないだろう。

 先に引用したダグラス・ラミスの言葉で言うならば、卵の外側はすでにヒビだらけなのだ。そして「補助業務」に携わってきた人たちは、その卵を内側から破る準備を、ずっと前からしてきた。

 現在、勤務に関する「仕組みが再検討」されている。

 そして、この「仕組みの再検討」は「補助業務」をしてきた人たちの得意とすることだと私は思う。

 とはいえ、私は「これからは××の時代!」などという大風呂敷を広げるつもりはない。

 ただ、どれだけ外部の環境が変化しても「仕組みの再検討」という活動は、たとえそれが「補助業務」と言われようとも、ずっと前から存在してきた。

 たぶん、私たちが行うことは「総合職」や「一般職」という区分けが壊れても変わらないのだ。

 これまで「一般職」で「補助業務」に携わってきた人たちは、たとえ、そのようなカテゴリが壊れても「後追い的な補助」と「先行する補助」の比重が変化するだけだ。

 これまで、いわゆる「基幹業務」にしか関わってことなかった人は、改めて「仕組み」という点に目を向けてみてほしい。そのような立場にいた人からの視点は、やはり重要だと思うから。

 そして、先の「総合職」「一般職」というシステムを保持している管理職以上の人たちは、その区分けに甘んじることなく、状況を素直に認め、評価するところはきちんと評価する制度を模索しなければならないだろう。

 さて、ここまで述べたところで、本文の結論をあえていうとすれば次のようなことになる。

 私たちがなすべきことは、流行に右往左往することではない。

 たとえ「これまで」が自滅しても、ただひたすら、これまで行ってきた「再検討」や「見直し」という営みを、対象とするものや状況が変化しても、着実に繰り返していくことなのだと思う。

 

 


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