電車で感じる視線が怖い

電車の椅子に座ることが苦手だ。極力座らないようにしている。

それは、席を譲る際のもどかしさが嫌ということと、他者からの視線に耐えられないという2つの理由から。

椅子に座ると、どうしても「見られる」立場になる。正確に言うと、「見下ろされる」立場だ。立っている乗客は座っている乗客を「見下ろし」、座っている乗客は立っている乗客を「見上げる」。

日常生活の中で、視線を「上げる」ことは少なく、動きの多くは水平、もしくは見下ろすことが多い気がする。

視線に優位性があるのだとすれば、それは「上から」だと思う。上からの視線は、高みにいる分視界が開けており、見渡せる範囲が広い。認識する空間が広いことは、気持ちの余裕を生み出す。

反対に、見下ろされる立場には精神的な余裕は生まれない。視線を「上げる」ことをしない限り視界は広がらず、狭い範囲での空間認識となる。見下ろされる私の体は、そこで何かしらの視線を感じる。頭上に感じる他者からの視線、私はそれが怖い。パノプティコンで言うところの囚人の気分な気がする。

「見下す(みくだす)」という言葉がある。「上げる」よりも「下ろす」ことで強い上下関係を生み出し、相手の存在を下にする。上座と下座。蔑むの語源となる下墨。高低にも近い関係がある。高慢。高飛車。低頭。いつだって、「下」になるものは弱く、怯えてしまう。見上げた先に、強いやつがいる。

「見る」という意識は、視線が水平同士、もしくは下から上にかけてのものだ。視線を「上げる」ことにはパワーがいる。見つめることも見上げることも、視線を動かすことに力を注ぐ。意識がないと視線は下がる。「見る」という行為には、必ず意識が伴うのだ。

電車内の私は、座ってしまうと弱くなる。他者からの視線が怖く、かといって視線を「上げ」て対等になる力もない。座ることで心身ともに余計な労力が生じる。できれば疲れたくない。空気のような意識で生きていたい。だから私は、今朝も自己防衛のために立ち続ける。

まるで被害妄想のように書いてきたので、満員の山手線ではない状況で考えてみる。

①多数派に属している状態

車両内のほとんどが座席で、9割の人が座り、1割の人のみ立たざるを得ない状況だったらどうか。新幹線のような、車内で立っている人がほぼいない状況ではどうか。

結論:座りたい。

②見られても問題ないと思える状態

私が美男子で、他者からの視線に耐えうる自信があり、羨望すらも集める対象だとしたらどうか。

結論:どうぞ見下ろしてください。

どうもよく考えると、私の思い過ごしなのかもしれない。コンプレックスの塊のようだ。