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もうひとつの「20歳のソウル」斗真の物語①

プロローグ
 
 あの日も桜が咲いていた。
「タカケンの後を継ぐのは、この俺です!」
 そう言われたタカケンは、あの時のあいつの言葉を、からかうような、けれど嬉しそうな目をして聞いていた。僕はあの時、何を感じていたのだろう。よく憶えていない。
 はっきりと憶えているのは、桜。
 一面の、真っ白な桜の中で、僕らは未来を見ていた。
 一年先の、三年先の、五年先の、十年先の。
 人生は長い。うんざりするほど長くて退屈なくらいだ。人生はずっとずっとずっと、続く。浅はかな僕らは、長い時間を持て余して意味のないことに笑いながら使い潰していた。続くことが不安になって気を紛らわせたい時には、その瞬間、好奇心を満たしてくれることに没入して、たまにそれを「夢」なんて呼んだりもしていた。
 今となっては、あの瞬間こそが「夢」だった。
 瞬く間に過ぎ去ったあの時間に、あの場所に、もう今は手が届かない。
「大義」
 桜を見上げながら僕は呟いていた。
 
 昨年の十二月。
 市立船橋高校吹奏楽部の定期演奏会は、例年通り行われた。いつもと違ったことは、市船の吹部を一から作り上げた高橋健一先生、通称タカケンの、最後の定期演奏会だったということだ。
「今の曲が私の、教員として、市船吹奏楽部顧問としての、最後の定期演奏会となりました。皆様、本当に、本当にありがとうございました」
「タカケンにも最後ってあるんだな」
 満員の客席で、僕の隣に座っていた田崎洋一が呟いた。
「そりゃ、いつかはあるよ」
「とか言って、また復活すんじゃねえの」
 洋一の隣にいた秋田豪が笑った。
 僕ら三人は高校時代の部活の仲間だった。いつも一緒にいた。正確に言えば、四人。
「大義も泣いてんのかなあ」
 また洋一がぼんやりと呟いた。見ると、ステージでタカケンが泣いている。
「笑ってるよ」
 泣きながら指揮棒を振る恩師の背中の大きさは、高校時代と変わらない。変わらないはずなのに、時間だけはしっかり流れてしまった。
 笑っちゃうよな。
 僕らはあの日、十八歳だった。来年はもう三十だぞ。お前が逝ってからもう十年が経とうとしている。十年だ。十年、お前の魂はどこで何してた?  
 僕は、何してた?
 割れるような拍手の音が会場を支配した。先生が深々と頭を下げていた。
 
「佐伯先生、揃いました」
 ふいに声をかけられて僕はハッとした。
「え?」
 3年生で部長のリナがじっと僕を見ている。
「揃いました」
「あ、そか。すぐ行く」
「お願いします」
 リナは軽く一礼してさっと音楽準備室から出た。僕の言葉を聞き終わる前にリアクションする素早さが、僕らの代の部長だったユッコに似てるな、と時々思う。
 机の上に広げていた楽譜にもう一度視線を落とす。
『JASMINE―神からの贈り物— 作曲者 浅野大義』
 市船の吹部の顧問という役割を高橋先生から受け継いで、初めてのスプリングコンサートでこの曲を選んだ理由は明白だ。むしろ、この曲を選ばないほうが自分にとっては不自然だ。十年前、楽器屋の雇われ店長だった僕がもう一度大学に挑戦し、高校の教員試験を受けようと決意させたのは大義だった。大義の死だった。まるで何かに突き動かされるように人生の舵を大きくきって、それまでとはまったく違う道を歩んだ。
 そして、気がつけば市船に戻ってきていた。
 副顧問を三年務めている間に、高橋先生はすべての経験と知識を僕に伝えてくれた。けれども同時に、こうも言っていた。
「お前はお前らしくやればいい」
音楽室に入ると、全員が合奏の準備を整えて静かに僕を待っていた。僕は指揮台に立ち、楽譜を開いた。
「お願いします」
 リナたち3年生がまっすぐな瞳を僕に向けてくる。僕は頷いて指揮棒を上げた。最後列のど真ん中を見た。トロンボーンのファーストを務めるセイヤがいた。
「……」
 静寂の中、流れくる美しい旋律。
「タイトルはJASMINEってつけたいんです。神様からの贈り物っていう意味。贈り物って今日の一日のことなんです」
 あいつの言葉が蘇ってくる。
「最近、朝、目が覚めると、生きてるなって思うんですよ。毎日、小さな贈り物をもらっているような気分になる。リボンをほどいて箱の中身を見るような気持ちで一日が始まるんです。明日も、贈り物もらえたらいいなって、どうかくださいって神様にお願いしながら眠る。そんな曲」
 そう話すあいつは、笑ってた。
 いつも、笑ってた。
 大丈夫だよ、ていうのが口癖だった。そう言われるとよくイラついた。なんにも大丈夫じゃないだろ、ヘラヘラすんな、そう怒った日もあった。あいつが叶えたかった夢、過ごしたかった時間、人生に退屈できるような贅沢を、僕は溢れるほど両手に抱えてきたのに。今、指揮台で棒を振っているのが、どうして僕なんだ。
「……」
 曲が止まってしまった。
「先生」
 リナが心配そうに僕を見上げる。
「あ、ごめん…!」
 ありえない。僕の腕は完全に止まってしまっていた。みんなの困惑が空気で伝わってくる。何やってんだ、僕は。しっかりしろ!お前は高橋先生の後を継いだんだぞ!
「本当にごめん、もう一度最初からお願いします」
「はい」
 リナが笑顔で答えてくれた。生徒に励まされてどうするんだ。僕は笑顔を作った。
「みんなも知ってると思うけど、この曲は、みんなの先輩が作った曲なんだ」
 僕は深呼吸して続けた。
「みんなの先輩で、僕の仲間だった…」
「市船soul作った方ですよね」
「大義先輩」
 セイヤがすかさず言う。
「うん。だからこの曲は、僕にとっても特別な曲なんだ」
「先輩の話、聞きたいです」
 リナが僕の気持ちを察したように言う。
「聞きたい?」
「はい」
 みんなを見渡す。その目が頷いていた。僕は指揮棒を置いて、指揮台の上に腰掛けた。
「じゃあ…少しだけ」
「少しじゃなくて、たくさん話してよ、斗真」
 ふいに声が聞こえた。
 振り返ると、真っ白な桜の花が目に飛び込んできた。桜が満開だ。そうだ、大義に初めて会ったのは春の日で、目が痛くなるほど満開に桜が咲いていた。
 あの日、あの時。たしかにあいつは、ここにいた。

(つづく)



※現在公開中の映画『20歳のソウル』第一稿をもとにした佐伯斗真のスピンオフ。映画用に作った斗真の裏設定を元に描いたストーリーですので、こちらの小説に登場する人物・エピソードは、中井由梨子が創作した架空の人物・物語であり、実在の人物、市船とは全く関係のないフィクションです。


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