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「誰も知らない取材ノート」〔第一章 市立船橋高校吹奏楽部1〕

中井由梨子が『20歳のソウル』を書くにあたり取材した記録。当時の様子が鮮明に書かれています。取材ノートのため、『20歳のソウル』に登場する人物以外の実名は伏せてあります。

JR東船橋駅は不思議な駅です。改札口を右手に降りても左手に降りても大きなロータリーがあります。しかもその景色がどちらもそっくりなのです。どちらもロータリーを囲むように薬局、ラーメン屋、歯医者が並んでいます。手前にはタクシー乗り場。背後には線路。一度行っただけではどちらがどちらか分からないほどです。私は取材を始めてから何度も東船橋を訪れていますが、そのたびに「右だっけ、左だったっけ」と迷ってしまうのです。
さて、初めて訪れたその時には、もうすっかり暗くなっていたので、それ以外の景色は把握できませんでした。よくある繁華街らしき明かりは見あたりません。ロータリーを出るとその先が真っ暗なので、そこは住宅街なのかな、と思いました。
高橋先生が仰ったように、「そのへんを歩いている制服の子」を見つけようと目を凝らしましたが、人通りはまばらでなかなか見つけられません。一人、制服の男子学生を見つけたのですが、彼は急いでいたのか、改札に駆け込んでしまいました。
私は少し困ってしまいました。ですが、先生をお待たせするのも申し訳ないと思い、ロータリーに一台だけ停まっていたタクシーに乗り込みました。運転手に「市立船橋高校へ」と告げると、運転手は快活な笑い声をあげてこう言いました。
「イチフナ?歩いたほうが早いよ」
 私は知らない街を歩くのは苦手なのです。時々携帯の地図アプリを見ながらでも迷ってしまうほどです。あたりも暗く、ちゃんと学校までたどり着ける自信はありませんでした。
「近いでしょうが、お願いします」
 私は結局タクシーで駅を出ました。ロータリーを出ると、やはり車道の両側には住宅街が広がっていました。走り始めて数分もたたないうちに、前方から紺色のブレザーを着た、たくさんの男女学生たちが道を歩いてくるのが見えました。道は広くないので、みんな狭そうにして私の乗った車とすれ違っていきます。車も歩行の生徒たちに気遣ってゆっくりと走ります。ここで降りて彼らに道を聞き、歩いて向かったほうが早いかなと思った矢先に、前方左側に、学校らしき大きな建物が見えてきました。タクシーの運転手が「あれですよ」と言いました。私は窓ガラス越しに学校を見上げます。工事中なのか、白いシートで建物全体が覆われています。
「今、工事してんですよ」
運転手が説明を続けます。工事中だから裏門から入らないと仕方ないんだ、と。「校舎の補修工事でしょうか」と聞くと、タクシーの運転手は「体育館じゃないかな」と答えましたが、実際のところは知らないようでした。実はその工事とは、市船吹奏楽部にとって革新的な、市船シンフォニーホールの建設(二〇一六年十二月完成)のためのものだということを、私は後に高橋先生から教えていただきました。この巨大な音楽ホールは、練習場としてはおそらく日本一ではないかといえるくらいの規模です。それが市立の高校の敷地内に建設されようというのですから、これは市船吹奏楽部の快挙といえます。
このシンフォニーホールでは吹奏楽部の演奏会ができるのはもちろんのこと、最大の利点は、吹奏楽部が時間を気にせず練習ができる場所である、ということです。現在は、音楽室や部室、空き教室を使って練習をしていますが、大掛かりな編成の全体練習は体育館でやらねばなりません。しかし体育館は通常、運動部の練習が優先され、吹奏楽部は、運動部の練習が終わるまで待たなければなりませんでした。運動部の練習が終わる時間は早くても七時~八時です。当然、吹奏楽部が練習を開始できるのはその後になるため、終了時間はどうしても十時を回ってしまいます。時には、帰宅時間が二十四時を越えてしまい、補導されてしまったケースもあるようで、そんな時には保護者が迎えに来ることもしばしばだそうです。このホールができれば、吹奏楽部は早い時間から全体練習ができて、そんな苦労からは解放されることでしょう。この計画を実現させたのは、ここ十数年の市船吹奏楽部の輝かしい実績があってのことなのは言うまでもありません。
 工事現場の隣の小さな門の前でタクシーは停まりました。運転手に礼を言い支払いを済ませると、私は敷地内に入りました。裏門というだけあって、校舎の裏側に位置しているため、私が立っている場所からは入り口らしきものが見当たりません。右手には自転車置き場があり、生徒たちのものか、自転車がまばらに並んでいるのが見えました。私は建物に沿って敷地の奥へと進んでいきました。すれ違う生徒たちが「こんにちはー」と挨拶をしてくれます。生徒みんなが挨拶をしてくれるという雰囲気はやはり「良い学校だな」という印象を持ちます(良いところは挨拶だけではないでしょうが)。見知らぬ人間が校内に入ってきたことに対する生徒たちの好奇心むき出しの目線はなんだか可愛らしく、自分の高校時代を思い出して懐かしくなりました。奥まで進むと来客用の昇降口らしき場所を見つけました。昇降口の向こう側には中庭スペースが広がっているようです。この昇降口から中に入れば、職員室を見つけられるかな、と思いました。ふと、高橋先生は職員室にはいない気がしました。時刻は七時十五分ほどでしたから、もしかしたらまだ部活が続いているかもしれません。そうすると、きっと音楽室でしょう。私は先生に再度電話をかけました。市船の敷地内に入ってきましたとお伝えすると、先生は仰いました。
「音楽準備室まで来てください、四階です。中庭から上がってこれますよ」
 先生の口調は先ほどと同じ、ハスキーではきはきとした早口でした。私は「分かりました」と返事をしながら中庭へ足を踏み入れました。中庭に外灯はなく、まっくらでどこになんの植物があるのか全く見えません。中庭を囲むようにコの字型にそびえる校舎からの漏れ明かりで、わずかに道が分かる程度でした。(続く)



中井由梨子(作家・脚本家・演出家・女優)



代表作『20歳のソウル』(小学館/幻冬舎文庫)
映画化決定!2022年全国公開
出演:神尾楓樹/佐藤浩市


取材を初めて4年。
大義くんが愛した「市船吹奏楽部」はコロナの感染拡大で、苦難の時に立たされています。今年3月に行われた映画のロケでは、部員の皆さん総出で出演・協力してくださいました。顧問の高橋健一先生の熱い想いとともに、部員の皆さんのひたむきさ、音楽を愛する心、市船を愛する心がひしひしと伝わってくる撮影でした。皆さんに恩返しするためにもそして皆さんに出会わせてくれた大義くんに喜んでもらうためにも来年の映画公開に向け、少しでも多くの皆さまに、「市船吹奏楽部」を知ってほしい。私が『20歳のソウル』の前に書いていた取材ノートを公開します。これは、ごく一部の出版関係者の方にしかお見せしていませんでしたが、取材当時の様子が鮮明に描かれた記録です。私自身のことも多く書いてあり、少し恥ずかしいところもありますが、私と大義くんとの出会いを追体験していただけたら幸いです。

皆さまのお心に「市船soul」が鳴り響きますように。

大義くんからの「生ききれ!」というメッセージが届きますように。







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