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批評論・批判論 0001

批評や批判の構造は事象依存であることについてから

芸能も芸術も学術すらも、そして政治や哲学までもが、全てテーマに依存してしまう構造について考えることから。

スキャンダルを追い求めるイエロージャーナリズムも、裁判の判決を報道することも、自殺者数の発表や痛ましい事件事故についても森羅万象の営みは、ニュースや報道、媒体を問わずその事象に依存する。不可逆な関係である。

まず、枠がある。

その、枠には必ず何かの情報や分析なりを埋める必要がある。

つまり、ニュースなどなくてもニュースにし、

目ぼしいネタが無くても、週刊誌の誌面は埋めることが必需だ。

学会が開催されるが論文の発表がない。ニュースやワイドショーで取り上げるものがないので、おやすみとなならない。

メディアを中心に、このないモノ、不必要な情報すら無いとは言えない。それは、全てネタ食い依存の職種の存続に帰依している。

職業を演じることが拝金化すると、いつでも批評の為に、批判をし、批判を批評するという、構図を製造して行くこととなる。

自身の経験上から言えば、個人ブログを何年も継続して書くこと、無償で書きたいモノを書くということですら、ブログを書く為に考え、ブログを成立させることが前提で思考し、その情報や分析に時間を割く。それは、ブログという方法論に依存した思考である。

小説家や画家などという職種がある。自己模倣の連続を作風として確立し、その虚無的な連動を人生として継続する。私小説を作者として生きることは、日記文学的な営みともなる。

多くの人間が職種という括りの中で、生計をたて日々の繰り返しで生存を継続するが、その括りの枠が無ければ存在が危ういのではないか。

批評も批判は解説や、分析や、翻訳、読解も図解のような加工を技巧として獲得している。事象を加工して、発表する形式の連続運動とは、思考停止の症例である。

思考が停止するので無自覚に、批評や批判を繰り返せるのであって批評や批判に値しないので放置したり、白紙のまま、なし、とはならないのだ。空間を埋めるだけの空虚、時間が過ぎるのを待つ曖昧な言葉すら、全て枠消費のネタ食いの亡霊に支配された患者の末路となる。

病的な状況を抜け出て完治させる方法は、ニュースに値するネタがないので、本日はなにもない!と宣言する勇気を持つことかもしれない。

勇気などない。あれば、廃業してしまうからだ。

そこで、少し視点をずらしてみよう。ラジオ番組について。

テーマを決めて喋る。この構図以外にラジオの放送形態は成立しない。フレームである。無駄話しだろうが、時事ネタであろうが、マイクの前で喋る以外に仕方がない。

何一つとして話すことがない!

しかし、話さないと放送事故となり、多くの人々の責任問題となり、話者は次回の席はなくなる。

白紙の雑誌や小説、映像のないTV、ホワイトアウトしたYouTubeや映画館のスクリーンも同じだ。

メディア構造依存の発表形式は、全て枠の前提とフォーマットにより、ルール化され、厳罰化もある。許認可制度による統治スタイルもあり、倫理規定やコードが存在する。

無言ラジオは成立しないのだ。

成立させる方法は、ただ何かのノイズでも聴覚刺激だけがあればいいという究極の事実に行き着く。

そこで、暗号を思う。語りと、事実が異なる。伝聞の可能性は無音の中に可能性を見出すという技法についてである。

空虚を語っているのではなく、批評批判、表現行為全般の表出についての草稿をただ、放置してみる。 ー続くー


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