あの時あの選択の後悔と葛藤

人生は後悔と選択の連続である。何度最善だと思う選択してもあの選択は合っていたのかと思い、後悔する。自分を無理やり納得させ、次に進もうとする。その次に進もうとする行動が人を成長させると思う
当然私にも人生を左右するような選択があった。
数多くある中私があげるのは一つだけ。それは小学校6年生の時。
当時私は市の大会全てに優勝し、チーム初の大阪代表でベスト8に進出。市で5本の指に入ると言われていた。エース・4番・キャプテンでプロに行く条件は揃っていた選手だった(自分でいうのもおかしいが)。
当然スカウトもむちゃくちゃきていた。親や監督にが主だったが、私自身にも何チームかスカウトは来た
ただ監督は地元との繋がり重視の考えがあったため全ての硬式チームのスカウトを断っていた。地元中学校の野球部に進学させるため。
で私の親も兄が硬式に行っていたが、その時に硬式のルールの厳しさ、いじめの経験から硬式は敬遠していた。スカウトは当然断った。
という私も兄の厳しさを見ていたので硬式=怖いというイメージがあったし、チームメートと離れて自分だけ別のチームでやるという事が嫌だった。
でスカウトは断った。
で地元の野球部に進学した。中学校野球部では既に有名人で誰よりも早く練習に参加が許されいきなり投球練習するなど優遇された。
が1996年10月11日。運命の日が訪れる。
その前に3年生が引退し、2.1年生の新チームができていた。私は当時1年生。投手として注目され日々練習していた。で新チームで試合という際、1年生はいつも通り外野に集まって、誰がボールボーイ、審判やるかという相談してた。が私は既にそういったことはしないくていいと免除受けていた。試合の際いつも通り1年生で輪を作り相談していたが私が呼ばれ、急遽投手しろと理由は「2年生エースがお前を見て自信なくした」と言っていると
で急遽その試合に登板。それが唯一の中学生登板だったのだが、ノーヒットノーランを達成してしまった。打っても三塁打打つだと活躍。
で迎えた10月11日。公式戦も近づいていて私はエースとして迎えるはずだった。憧れの背番号1をつけれると思っていた。小学校時代はキャプテンだったので背番号はずっと10番だった。
その日先生はいなく先輩らといつも通りの練習してた。練習が一通り終わってクールダウンのためグラウンドを走っていたら頭痛に襲われた。もともと片頭痛持ちだったので、いつもの頭痛だ。もうこれで練習終わりだし、かえってゆっくりしようと思っていた。最後グラウンドに正座して黙とうし終わって立とうとした際立てずグラウンドに倒れた。何度も何度も立とうとしたが、力なく崩れるだけ。左足に力が入ってなかった。先輩が気づき宿直の先生を呼んでそのまま救急車で運ばれた
診断結果は”脳こうそく”一番太い血管が詰まったということでそのまま入院。24時間点滴の生活。寝たきりの生活だった。食事もとれない、動けない。何もできない生活。当然野球もできなくなった
あの時中学校の野球部ではなく硬式にすすんでいたらとずっと思う。小学校のライバルだったやつは硬式にすすみプロにいった。プロで活躍はしなかったが・・・
けど障がい負ったから分かったこともある。障がいおったからこその出会いもある。今じゃもう時が経ったので後悔も少なくなったけど、やっぱりあの時の選択をと思う事はむちゃくちゃある
プロ野球選手になりたかったが、当時野球を続けていればプロになれると思っていたからね。硬式にいくべきだったかなって思う。けど硬式に行ってたら野球は続けていないかもとも思う。それほど根性がある方じゃないからね。
甲子園のマウンドは障害者野球で踏んだこともある。甲子園なんて普通にやってればなかなか行ける場所じゃないからね
野球で身を滅ぼし野球に救われた。野球してたからこそ早く回復し、一般的な生活をすごせるほどになったからね。
あの選択は正解だったのか間違いだったのか。答えは自分にも分からない。

#あの選択をしたから

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