女性軽視への嫌悪と矛盾

こんにちは、八咫鴉です。
オーバードーズについての記事はいつ書くの?
ですよね。本人もそう思ってます。
まぁクネクネ蛇行運転みたいになるのも
いっか!!と普段なら自分に許せない事を
ここでは許しちゃうので生暖かい目で見ていて下さると助かります。

女性軽視への嫌悪について
当然ながら意図的な、または常に優位に居る立場での無意識な女性軽視というのが問題視されておりそれは時代が進むにつれて化石発掘の様に「まだそんな考え方の奴がいるのか…」という絶望感と何処が先進国なんだ、後進国の間違いだろ…等と苦悩する毎日ですね。

ワンチャンあるなら優しくするけど無いなら意地悪してくる方結構居てマジでドン引きしています。本当に引いてるよ☺

さて。
しかしながら最近感じる「女性軽視について抗議する意思」を持ちながらも「自ら自身を蔑む自虐表現の多さ」の矛盾点に疑問を感じたので筆をとりました。
これは何も他人に限った話ではなく自分にも勿論当てはまります。
軽視された時、基本的人権の範囲内で蔑まれている理不尽さに抗議する訳ですが
その反面で自分から自虐する表現を取ることで
一定数得る共感がある事に目を向けてみると
「これが軽視の境目を解らなくしているのでは?」
という疑問に行き着きます。
これは性別、年齢、国籍、障害は関係ありません。

自虐という表現は以前にも書きましたが本人のみが表明する事を許された表現となります。
またその「自虐」を「皮肉」等で風刺したり
ツッコミ等で「芸」として昇華させるのが
芸人さんや落語家等の職業だと思います。
これは当然「一般人が何を思ったか芸人と同等の手腕があると思い込み他人に対して安易に芸人を真似てやる」等という事をやれば
それはもう「お前は芸人じゃねーよ」という事になります。
ボケてツッコミがある。
いわゆる愛のあるいじり等と評されるものは、
芸人が達する境地であり芸人が芸人に対してまたは芸人が一般人に対してその手腕を持って芸を披露する意味で自虐や皮肉を黄金比で使用する事を指すように個人的に思っています。

その為、何を思ったか一般人が他人に対して
大喜利大会をやってそこにさじ加減も解らぬ素人がただの自虐と皮肉を投げっぱなしに使う
というのはその殆どが「当たり屋的な事故」と化すのだろうと思います。
そうは言っても私もネット上で匿名掲示板やTwitterの奇跡的なリプリレーや今も尚語り継がれる冴えたツッコミ等結構好きで読んでいます。

かなり脱線してしまいましたが、
基本的に日常の中で「面白おかしく合いの手を入れてあげた」や「捻りを入れた」等という行為はトンデモネーお節介行為だと思われます。
しかしそこにはその判断を難しくさせる要因として、先に書いた「自虐」「自分を下げる」等が挙げられます。
私は思った事を思ったら口から滑らせる事が昔は多かったのですが、それを気を付けなければならないと細心の注意を払いながら色んな人達の会話を聞き逃す事の無い様、また話している本人が伝えようとしている意図を正確に汲み取れる様神経をすり減らしてきました。これがまた疲れる…

第一次混乱期
小学校高学年〜中学校頃にかけて
「言動と行動が一致しない」がありました。


Q.テスト勉強した?
A.してない!(してる)

Q.皆仲良しだよね!
A.(その場にいない人の悪口)

これには大混乱し、意味が解りませんでした。
今でも解りませんが意識し続ける事が大事だと思っています。
その場では皆の空気に合わせて言う事ややる事
これがどうも私には厄介でした。
どっちなの??なんなの??嘘なの本気なの??
どの時の相手を信じれば良いのか
全くチンプンカンプンで、馬鹿正直に思った事を言ってみると怒られる等の経験を経て下手な事を言わない方が良いとなりました。

第2次混乱期
これも同じ様なものですが、話している相手が自虐の後空気を読んで訂正するという流れです。
自分が思った事を言ってみたら違った様な気がしたので「っていうのは冗談で!」みたいな感じで訂正します。
私としては最初に発した事が本心では??
と感じているものの、本人がそれは冗談と言うのならその冗談を飲み込む他無いのでしょう。
これはDV被害者やいじめによって不当な扱いを長期的に受けてきた人に多い気がします。
相手の機嫌が良くなる事を言わなければ、殴られるかハブられるので相手の顔色を見てすかさず訂正に入ってしまうというものです。
殆どが無意識であり、恐らく本人も辞めたいとは感じているけれど相手から嫌われたり相手の期待を裏切る事が怖くて出来ないというジレンマに晒されているのではないかと思います。
そして自分にもおおいに思い当たるフシが有ります。

糞がつくほど生真面目で冗談が通用しない面白みの無い自分(これも自虐ですね)は様々な場面で
「冗談通じないとかつまらん」
「○○は真面目だから冗談通じんね〜(笑)」
みたいな感じの事を沢山言われました。
冗談が解らない=悪い、みたいな空気本当に辞めて欲しいです。理解するのに時間が掛かるので冗談なのかどうなのか考えてる途中でよくそう言われる事が多かったのでこっちは滅茶苦茶に凹みました。
その為、本人が慌てて訂正した事象を確認してもそれ以上追求しない事で無難な路線としておさめる様にやり方を覚えました。

つまり、こんな状態が入り乱れる中で
どうやって本人の本心を汲み取れるのか??
という事ばかりに焦点が絞られていきます。
するとシンプルに「自虐」や「誤魔化し」を
やめれば良いだけという所にいきつきます。
女性だけでなく性別や年齢、人種、障害等
様々な事に軽視というのはあります。
その軽視が何処からなのか?という境目を
“出来る限り”明確にする為にも必要以上に自分の人格や自己肯定を否定しないという事も重要だなと感じるのです。簡略すると「歩み寄り」です。
そして私もこれが出来ていない事は痛感し今後の課題であります。

言う側やる側言われる側やられる側の溝を
出来るだけ協力しながら浅くするしか方法は無いので、なら紛らわしい事を減らす方向にもベクトルを向ける方が効率的かつ誰しもが解りやすくなるのではないでしょうか。
「察してくれ」「その位自分で判断しろ」
というのは少し乱暴なやり方でもあるので
「説明」「素直に話す」
という手札もうまく使う事でお互いの理解を深めあえればと考えます。

考えたいとか、自分も意識してみたいとか
そんな風に感じてやってみよう!としてる方に対し目くじらを立てて都度レッドカードを掲げたら
二度と近付かないのではないでしょうか。
だって怒られるから。
解らないなりに四苦八苦してみようと取り掛かったら四苦八苦が許されないというのは
相手に「これは面倒だ」「触らぬ神に祟りなし」と思われる事もあると思います。
これはフェミニズムや政治、障害界隈でもよく見られる事だと思います。特にセンシティブな内容であるから慎重になるのは仕方なく少数派とされる方が受けてきた今までの不当な扱いや理不尽な言いがかり、決めつけの歴史の厚みを鑑みればほんの少しの解釈の違いや言葉の選び方にもピリピリするのは当然の事かもしれません。
しかしそれは新しい層に考えてみて欲しいという問題提起や取り組みを行う時には返ってそれらが解らないなりに取り組んでみようと四苦八苦する層の余裕を削ぎ落としてしまい関わる事に苦痛を強いる形になってしまうのでは?と感じてしまうのです。

これは決して軽視的な言動や行動をする人達を肯定し容認する訳では無く、皆で考えていこうという機会までも潰してしまい兼ねない強すぎる言い方、やり方を伝える側も工夫しようという意味で書いています。
恐らくこの考え方はあまり歓迎されないのかもしれません。何も解ってないなとも思われるかもしれません。出たでた中立表明みたいな嫌悪もあるかもしれません。
それでも対話を続けていく為には言い方にも工夫が必要だという事は当事者以外の人たちを含める場合には必要だと思っています。

声を上げる事を続ける程こんな事も考えてないの?という愕然とした気持ちになる事も多くありますし、また「今まで何聞いてたの?」「何も聞いてないよね?」という同じ事何回も言わせるマンに当たるたびに「こっちからわざわざ言わせるな」と思う事も多々有ります。
「解らないから言って教えて!!」
と他人任せに丸々放り投げる人も多くて喧嘩腰につっかかざるをえないという時も解ります。

どちらが悪いという事ではなく
様々な人に関心を持って考え続けて貰いたい場合には特にシンプルに素直に話す方が解りやすく
感情的に自虐を含めない方が相手も思い描きやすいという事で、同時にそれが如何に難しいかという事でもあります。

少しだけでも意識してみる事で矛盾の幅が縮まれば話せる幅にも変化があるのでは無いだろうか?
そして一定のもう手遅れだろうという悪びれもせず軽視発言や行動を繰り返す人は死ぬまでそうなんだな、と切り捨てる事も必要なのかなと。
困った事に今の自国の責任や決定権を担った方々にこれが殆どなため「この国死んだわ」と絶望せざるを得ず、声を上げる方も感情的にならざるを得ない事も山々ではありますが。

そういった斬っても死なない様なタイプの人に向けて書いてはいないので。
身近な人がとっかかりやすい様にする為に、相手に自分の気持ちが伝わりやすくする為に今ある矛盾点や事をややこしくしてしまっている事に焦点を当てて書いています。
こういった細微な事にも反応する方は取り入れるのも早いので極端な感情論は言ってこない方が多い印象ですが、あくまでも個人的な価値観によるものである事はご了承頂きつつまだまだ勉強不足である事を前提に読んで頂けると幸いです。

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