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シラノ・ド・ベルジュラック

2022年2月8日 観劇。
 17世紀フランスに実在した詩人、剣豪のシラノを主人公にしたエドモン・ロスタン作の戯曲。世界各地で上演されている。今回は2020年にロンドンのプレイハウス・シアターで上演されたマーティンクリンプ脚色版を日本で初めて上演。

 私自身は原作も舞台も見ていないし、NTLも未視聴。あらすじはなんとなく知っている程度(といっても、クリスチャンがどういう人生を歩むかだけ)。物語の時代背景に沿ったわけではなく、衣装もセットも現在的でシンプル。シラノが綴る詩をフリースタイルラップに乗せて詠わせた脚色はとても新鮮で斬新だった。おもしろかったとも思う。その一方で観客の想像力に委ねる割合が高いこの作品は、演者と同じくらい体力と神経を使う作品だった。特に初見は舞台から発せられるあらゆる情報を余さず聞き取りたい、見たいと思う。だからこそ無意識に全神経を尖らせている。作品の最初の台詞も観客の想像力に働きかけるものではあるが、まだ現実の世界との狭間にいる私には音響のせいもあって聞き取れなかったところがほとんど。かろうじてクリスチャンの「詩?知らん。しね。」くらい。あ、これも開演前にパンフレットを読んでいなかったら聞きとれなかったかも。〝オンナ〟のイントネーションで揶揄われるくらいでようやく耳が慣れてきた感じがするし、そこで主要人物のイントロダクションが行われていることに気がついた。あのシーン、リニエールとPAスタッフは毎回プレッシャーだろうなと思うけど、何が始まる分からない(分かっていない)状況では、あのたくさんの情報量を全て聞きとるのはむずかしいと思う。

 正直、一幕は誰にも感情移入できなかった。きっと私の理解が追いつかなかった。シラノがクリスチャンを通して自分の想いを伝えるのもよく分からないし、クリスチャンもシラノと接していれば、自分が着ぐるみとなってロクサーヌと向き合っていることに気がつかないほどバカではない。そしてロクサーヌ。「美しさと知性は比例する!(だからクリスチャンも文才に長けているはず)」ってこれまでシラノの何を見てきたの?言葉を大切にするシラノとぶっきらぼうたけど気持ちを一生懸命に伝えようとするクリスチャンに比べて、とても軽薄な人に見えてしまった。一目惚れってそういうものではないような。恋に恋してるって感じ。あの天真爛漫さが魅力であったりもするのだけど、ロクサーヌのほとんどに共感できなかった。
 シラノはクリスチャンの代筆をするという提案を思いついた時、どういう結末を辿るのか、自分がどういう気持ちになるのか、シラノ自身全く想像していなかっただろう。ただ自分の想いを、自分の最大の魅力である言葉でロクサーヌに伝えたいだけ。しかも好きな人の想い人として伝えることができる(そして必ず読んでくれるという保証がある)絶好の機会。それは悪魔に才能を売る代わりにロクサーヌが好きな外見を手に入れる(ロクサーヌにはそう見える)禁断の契約を交わすようなもののように見える。手紙のやりとりを重ねれば重ねるほど、楽しく想いは募り、幸せな気持ちとは反比例した気持ち。自分の言葉で2人が永遠の愛を誓ったとき、どう思ったのだろう。苦しいのは容易に想像できるけれど、そこにいるのは自分だったかもしれない(でも自分を選ぶわけがない)気持ちやロクサーヌが幸せならそれでいいという相手を思う気持ち、なんで手紙の代筆を申し出たのだろうという後悔、思いを巡らせば巡らせるほど複雑。

 二幕になってクリスチャンに恋愛以外の感情が現れたとき、この作品でようやく誰かに感情移入ができた。このまま誰の思いにも沿わずに観終わるのかと不安だったのでホッとしたという方がいいのかもしれない。いや、そうだろうよ。何度も言うけど、クリスチャンもシラノが綴るロクサーヌへの手紙をみれば、その想いに気がつかないわけがない。シラノに詰め寄るクリスチャンに嫉妬も感じたし、ロクサーヌが手紙の本当の書き主を知ったらシラノに心変わりするんじゃないかという不安も感じたし、ロクサーヌを取られたくない気持ちも感じた。なにより、シラノ自身の姿でシラノとしてロクサーヌに伝えないシラノに疑問を持っただろうし、腹も立っただろう。シラノの部隊に入隊してから見ていたシラノとは正反対のシラノ。らしくない。そこにロクサーヌの「大事なのは封筒(外側)じゃなくて中身ってクリスチャンの手紙をよんでわかったの!(ざっくり)」の言葉。クリスチャンには残酷で、戦場で敵にやられるよりも痛かっただろうし深く刺さっただろうし、つらく傷ついたと思う。その同じ舞台上にいるシラノが悪魔にも見えた。ロクサーヌに自分の気持ちを含めて全てを伝えたくても、クリスチャンはそれを伝える術を知らないし、伝わるだけの言葉を持ち合わせていない。そしてロクサーヌはクリスチャンの言葉に耳を傾けないし、クリスチャンの言葉は響かない。

二人の男が、一人になって、同じ人生を生きる。
そういうのはできないのか?
パンフレットより

クリスチャンの出した愛するロクサーヌが幸せになるために考えたこと。シラノに口づけして自分をシラノに同化させて、その答えの実現を委ねた姿がせつなくて、かなしくて、儚くて、でも美しかった。

 クリスチャンもシラノもロクサーヌもみんな若い。21歳前後。若いからこその盲目と勢いがある。クリスチャンは冒頭の〝オンナ〟のイントネーションで揶揄われるくらい地方からの出身で、きっと私が想像しているよりも精神年齢は若い。「詩?知らん。死ね!」って簡単に言う環境で育ってきたんだろう。そんな彼がシラノの部隊に入り、初めて劇場や詩やいろんな言葉、音楽で鼓舞される民衆に触れて、自分の世界がキラキラ輝いただろうし、新鮮だったと思う。そんな中で現れたシラノは同年代だけど、剣術に長け、部隊長で、正義感も強く、芯があり、憧れる部分も大きかったと思う。だからこそシラノの提案を受け入れたところもあるし、シラノにそう言われるとうまくいきそうな気もしていたように見えた。

 開演前、幕に浮かぶ大きな2022。
幕間はCYRANO DE BERGERAC 1619−1655。ラストシーンで映し出された1655に「そうだ。この作品はシラノの生涯を描いたんだった。」と気付かされる。1655年7月28日、フランス サンノアの朝。シラノが全てを打ち明けた結果、燃やされた手紙。結局はクリスチャンの外見だったんかい?!とツッコみたくなったけれど、クリスチャンの死がシラノにもロクサーヌにくっついて離れないこともわかったし、ロクサーヌがクリスチャンのような外見でシラノのような言葉を綴る知性を持ち合わせた自分の理想の人、最初から存在しない人を愛していることに19年越し知った衝撃は計り知れない。そうやってシラノが否定されたのは悪魔と契約を交わした代償で自業自得な気もする。最後にシラノの周りでル・ブレたちのシルエットが映し出されるシーンは走馬灯のようにも感じるし、〝オヤジ〟の違いも死期が近づく中でただの〝オ〟〝ヤ〟〝ジ〟と言葉の羅列になっていってた。言葉の持つ意味を大事にし、言葉の力を信じ、言葉で魅了してきたシラノの生涯が意味を成さない言葉を発することで終えた。それがバットエンドなのか美しいのか分からないけど、シラノらしい終焉だったなと思う。

 セットは階段で構成され、照明はLEDライトバーをうまく活用し、ガイコツマイクにカメラを仕込んでいてそれを映し出すなど新鋭的。BGMは必要最低限で音はステージ上で発せられたもののみ。開場中も幕間も終演後も観客は静かで賞賛は拍手のみ(今まで観劇したなかで、一番静かだった)。
シラノがド・ギッシュの手下とラップで闘うシーンは8Mile(イメージ)が始まった?と思ったし、手紙のやりとりは平安時代の和歌のやりとりを連想させ、シラノの生涯を閉じるシーンは落語の小噺を連想した。ラグノー夫人のお菓子作り教室で根幹になるところはいつの時代も変わらずに伝わっているという話は言葉にもそういう部分があり、ラップ・和歌・小噺のように表現方法は時代の流れで変わるけれど、その表現の根幹にあるものは変わらないなと感じた。
 とても革新的だった分、削ぎ落としたものも多く、中途半端になってしまったものも多かったように思う。特に〝見た目と内面〟をテーマとして考えるならば、お互いに持っていないものを補うように成り立っていたシラノとクリスチャンの関係が近しくなるようなところも観たかったし、シラノとクリスチャンの共同作業がロクサーヌへ愛を伝えるシーンだけだったのも残念だった。ラップも〝はな〟で韻を踏んだクリスチャンとシラノのリリックが一番わかりやすくおもしろかった。恋心と一緒に育ったはずであろうシラノとクリスチャンの友情が垣間見れたり伝われば、シラノにもクリスチャンにも心を馳せることができたと思う。初見ではシラノがクリスチャンを利用したようにしか、正直見えなかったし、こうやって感想を書きながらこのシラノの行動は自己満足でしかなかったなと、それと同時にロクサーヌも自己満足でしかなかったなと思ったりもする。
シラノとクリスチャンの友情も想像力を働かせるしかないのかな。きっとそういうことなんだろう。

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