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推しのおすすめの映画を観て感じた両親からの愛の話

私は、JO1の金城碧海(きんじょうすかい)くんが好きです。

Netflixを眺めている時に子宮に沈めるという映画が目に留まって、『そう言えばこの映画、碧海がおすすめしてたなぁ』と、思い出しました。
でも、インパクトのある作品名に少し不安を感じ、あらすじを読んでから作品を見ました。

この作品を見るには、心構えと強いメンタルが必要です。お子さんがいる方は独り身の私よりショックを受けるかもしれません。

実話をベースに制作されたネグレクト(育児放棄)の話です。
事件の記事にもさらっと目を通したのですが、作品よりも酷い内容でした。

ネグレクト。テレビやネットのニュースで見かけたことはあるけれど、身の回りで聞いたことも見たこともありませんでした。

この作品には、音楽は無ければ、視点は定点カメラで撮影しているため動かず、画面から滲み出るそのリアルさに目を背けたくなるほどでした。

想像を絶する悲惨さに、言葉が出ませんでした。

あどけない2人の子どもが密室に閉じ込められ、子どもだから分からない、起こってしまっている悲劇にも気付かない、それが無惨で、悲しくて、どうしようもなくて。

いかに自分が、幸せで、たくさんの愛情を受けてここまで育ったのかを痛感しました。

私の両親は共働きでした。
私には5つ下の妹がいます。
妹が生まれた時、すごく嬉しかったのと、両親が妹の世話で忙しくなって構ってくれなくなって、子どもながらに寂しかったことを大人になった今でもなぜだか覚えています。

3歳まで父と母と3人でアパートに暮らしていたのですが、今の実家に引っ越すことになり、幼かった私は夜になると「おうち(アパート)にかえろう」といつも言っていたようです。その度に父がドライブに連れて行き、私が寝るまで車を走らせていたことを20歳になった時に母から聞きました。

小学生になり、夏休みも当たり前に働いていた両親は、朝早く私たち姉妹を学童保育まで送ってくれました。でも、到着時間が早すぎて学童保育の先生はまだ来ていませんでした。外は日差しが強くて、太陽に照らされたスノコ板は熱を帯び、ぼんやりと妹と2人で先生を待っていました。

最近、母が「あの時は本当につらかったよ、小さい子ども2人置いて仕事行くのは。」と溢していました。母の方がつらそうでした。

帰りのお迎えも遅かったです。
うとうとしながら学童保育の机に突っ伏していると「お迎えきたよー!」と、先生が私と妹を呼んでくれました。小走りで迎えにきた母がいつも息を切らして「ごめんね、遅くなって、」と言っていました。

19時過ぎ、お腹が減っていた私たちのことを気にかけてくれて、家に帰る途中にコンビニに寄って車の中で3人で食べたあんまんとピザまんの味とか、パン屋さんの米粉パンの味とか、今でも忘れられない大切な思い出です。

疲れているはずなのに、夕飯はいつも美味しいご飯を作ってくれたし、私と妹のお喋りにも寝るまで付き合ってくれました。

風邪をひいて早退する日は、父が迎えにきてくれました。病院の帰りに、マグカップで作る蒸しパンを買って食べさせてくれました。

病院帰りに買ってくれた蒸しパン

父の影響で小学4年生から始めた部活は、練習試合も大会もいつも観に来てくれて、母は誰よりも大きな声で応援してくれました。
部活は、結局高校生まで続けて、合計9年間プレーできました。
遠征費はもちろん、道具も全然安くないのに、必要なものがあれば買ってくれました。

父が私のチームでコーチをしていたのですが、思春期なのもあって、父が練習場にいるのも、自分のプレーにあれこれ言われるのも本当に嫌でした。
でも、今思えばとても恵まれた環境だったなと思います。
私はその恩恵を受け入れられなかったけれど、妹は真っ直ぐに受け止め、日本代表としてプレーしたこともあります。私たち家族の誇りです。

両親のことは好きだったけれど、高校までは本当に厳しくて早く家から出て自由になりたいと思っていたし、母は「大学生になったら自由にしていいからね、一人暮らしするんだよ」と言っていました。

大学生になり、本当に急に自由になりました。
自由すぎて最初は不安になりました。

洗濯物、洗い物、掃除、ゴミ出し等、家事全般が大変だということに一人暮らしを始めた序盤に気付き、母の偉大さを知りました。

一人暮らしで悪戦苦闘している頃、ニュースに私が住む街で起きた事件が流れ、その度に『うちの娘なんじゃないか』と父が母以上に心配していたことを後々知りました。

大学に入ったものの、1年目から進路に迷うことになり「とりあえず続けてみなさい」という母からの言葉は、大学3年目で限界を迎えました。
「大学を辞めたい」と伝えた時、両親は怒ることもなく「自分が進みたい道に進みなさい」と言ってくれました。たくさん相談に乗ってくれました。いつだって私の味方でいてくれました。

大学を辞めITの専門学校に通い、プログラミングやWEBデザイン、プラスして英語の勉強をしました。学校の日は早めに登校して、放課後は残って勉強して、休みの日も勉強するようになり、学年トップの成績で卒業しました。努力している意識はあまりありませんでした。すごく楽しかったです。プログラミングは泣きながらやってたけど。

両親は私が道から外れそうになった時、いつも全力で叱って、話し合って、軌道修正してくれました。

20歳を過ぎた後は、私が進みたい方向へ進めるように導くのではなく、見守ってくれていました。

社会人になり、仕事が始まり、部下ができ、自分の仕事で精一杯で泣きながら残業しています。
これを2人の子どもを育てながらやっていたのかと思うと、私には到底無理だなと思いました。

大人になってから気付いた両親からのたくさんの愛。この愛を受けられるのは、当たり前のようで当たり前ではなかったことを、『子宮に沈める』を観て気付かされました。

毎日してくれた駅までの送り迎え、作ってくれた手作りのお弁当、教えてくれた折り紙、遊びに連れて行ってくれた公園、お手伝いした夕ご飯。
たくさんの物や場所に両親からの愛の記憶が散りばめられていて、忘れることはありません。

みんなで囲んだ食卓も、あの頃は当たり前だったけれど最後はいつだったっけ。たまに恋しくなる。

子どもは親を選べないと言うけれど、私は2人の子どもになれて、家族になれて幸せです。

私は自分の子どもがそんな風に思える親にいつかなれるのだろうか。
子どもができたら両親のように、たくさんの愛情を注げられる親になりたい。なれるかな。

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