美しくなれないね、という話
アドカレのところには共感覚の話だのフリマの話だの書いていましたが全く違うものを書くことになりました。そういうこともあるよね。
「美しくありたい」
中性的な整った顔、薄くスラリとした華奢な身体、澄んだ声に憧れ、中学生の頃だったかにそう思い始めた。その思いは高校生になってもましていくばかりで、歳を重ねるごとに落ち着くどころか強くなりもはや執着のようになっている気がする。中学生なんて思春期真っ只中の時期だし、自身の顔や体型が気になってしまうのは年相応のことだと思う。思うが、あまりにも長引きすぎている。
私は自分の顔があまり好きではない。これを書いている時は「あまり」で済んでいるが、本当にどうしようもないくらい嫌いに思える時もある。体型についても然りで、私は「私」という入れ物を好きになりきれない。こういうのはたいてい幼少期に心無い言葉を投げかけられたりした嫌な思い出に起因するものだが、思い出せる限りそんな記憶はない。どこでこうなったのかわからないが、理想とする「美」からの乖離具合が引き起こした感情なのかな、と思っている。
外見にコンプレックスを抱えながらの学生生活は苦しいものだった。何をしていてもふとした瞬間に「私みたいな不細工が」という思考が付きまとう。笑顔すらも気持ち悪いのではないか、と思うことが多々あった。
そんな有様だったからか、「美しいもの」への憧れは瞬く間に肥大化していった。私はきっと、手の届かないものを美しいと思う。中性的な人間であったり、華奢な人間であったり。綺麗に笑う人、自分の核を貫いている人、感情をうまく織り込んで歌う人、包み込むような伸びやかであたたかい声、月、星、海。才を自覚して、それを思いきり使いきってやろうとしている人。神様。なれない、手の届かない存在への憧れがそのまま美として変換され、結果として美への憧れへと帰結する。
私は美しくなれない。神様にも月にも星にも海にもなれない。たぶんこの先もそう思いきることもできない。天才ではないし、どこまでいっても凡庸な人間であることは19年生きてきたいまそろそろ認めざるを得なくなっている。でも、これは私の祈りでもあるが、美しくない人間だからこそ見ることのできる世界もあると信じている。暗いところほど星がたくさん見えるのと同じように、美しくないからこそ多くのものが美しく映ると思う。羨望という形で映るそれはきっと苦しみを伴うけれど、私は自分の感じた美しさから目を逸らさずにいたい。幸か不幸か、演劇や歌、コスプレや絵といった自分を表現する行為はずっと嫌いになれずにいる。承認欲求ゆえかもしれない。最近はそれでも良いと思えている。綺麗な理由じゃなくても何かを生み出すことは諦めたくない。そうしていつか、自分が出力したものを通して自分のことを美しいと思えたら良いなと思う。
乱文失礼しました。ずいぶん長々と書いてしまったし、記事が仕上がったのは当日の朝です。すみませんでした。読んでいて心地のいい内容ではなかったと思います。この後はホットミルクとか飲んでください。
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