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2022年7月9日の「最も大きな、横書きの、黒地に白抜きの見出し」

新聞においては「見出し」、いわゆるタイトルが重要だ。
わかりやすくいえば、シンプルに見出しの文字がでかいとそれだけニュース価値も大きい。
さらにいうと横書きの見出しは、特にニュース価値が大きい。
もっというと黒地に白抜きだと、かなりド級のニュースである。

これを組み合わせると「最も大きな、横書きの、黒地に白抜きの見出し」が新聞における最大のニュースバリューの表現ということだ。

私は記者としてこの「最も大きな、横書きの、黒地に白抜きの見出し」が紙面に刷られた日の出来事を、現場で体験したことがある。
安倍元首相が2020年、体調不良で首相を辞任したときだ。

当時のことを少し思い出してみる。
8月28日の14時7分ごろ、けたたましい音とともに、NHKの速報ニュースが流れた。その瞬間、官邸の記者たちの目は、テレビにくぎ付けになった。

「安倍首相 辞任の意向を固める」

NHKゆえ、確度は高い―記者たちは電話でいたるところに連絡を取り始めた。会社のデスクに連絡をとるひと、裏を取りにいくひと、目的は様々である。誰もが一気にせわしなくなる。

気づけば、株価が下がり始めていた。午前中上昇していた日経平均株価は、辞任の一報であっという間に下げに転じ、ついには一時600円を超える下げ幅を記録。円高も進み、106円台前半まで上昇した。

ものの5分でこれだけ下がったことは、市場関係者の多くが「今日の会見で辞任表明」ということまでは織り込んでいなかったことを示していた。
そして、安倍首相がただ在任しているという事実がマーケットを支えてもいたのだ。

官邸のエントランスにも記者があふれていた。要人が出入りすればその人についていき、総理の辞意表明は事実か、理由は何か…などを問いただす。

こんな事態になってしまい、めまぐるしく要人が来るものだから、番記者たちは群れを成す鳥のように要人に集まっては散り、集まっては散り…を繰り返す。時々何か喋る政治家がいて、その内容を電話で話す。

NHKのテレビを見ると、「臨時閣議で辞意表明」にテロップが変わった。あとは本人の発言を待つだけ。このあたりで少し、官邸の人の出入りが落ち着いた。

ネットに目を転じる。報道を受けていろんな政治家がコメントしていた。
ねぎらうコメントもあれば「臨時国会を開いて森友の問題などを説明しろ」「大事な時に体を壊す癖がある危機管理能力のない人物」と、色々な声があった。人間としてダメな人は政治家でも一定数いるものだと痛感した。

そして夕方、総理会見が始まり、正式に辞意を表明することとなった。仕事を終えた帰り道、「首相が辞めるその歴史的な瞬間に官邸にいたんだな…」としみじみ振り返っていた…そんな記憶がある。


翌日、辞任という「最も大きな、横書きの、黒地に白抜きの見出し」が紙面をにぎわせた。

しかし、これほど歴史的な一日であっても、残酷なことに一日は一日であり、何事もなかったかのように明日はやってくる。
辞任した時もそのときはとてつもない盛り上がりだったが、終わってしまえば何事もない平穏な日常がただ過ぎていった。
そうしてそのうち、平凡な日常が戻ってきて、きっとこんな普通の日々がいつまでも続くのだろうと思うようになっていった。


7月9日の紙面では「最も大きな、横書きの、黒地に白抜きの見出し」が各紙で並ぶことになる。
この「最も大きな、横書きの、黒地に白抜きの見出し」は、同じような普通の日々が平穏に繰り返されていたことの幸福を、私たちに示唆しているのではないのか。

そして政治とは、そのような何気ない日常を守るために、言葉を戦わせる営みではなかったのか。
その平穏をどう実現するかを考え、必死に戦っているのが政治家ではなかったか。
そのために政治家の背中を撃てば、平穏な日常はやってくるのか――答えは言うまでもなく否である。

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