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ひとりの怒れる人間であるか

コロナやら不況やらで各人がおかれた現状の苛烈さもあって、政治のしょうもないごたごたを見ているときに多くの人が怒りを覚えることが増えたように思う。
一般に怒ることはあまりよくないと思われがちだが、私はそんなことはないと思う。

怒れるということは、何かしがの問題意識がそこにあるということだ。
「本来こうあるべきではない、ぜったいにおかしい」と思えるからこそ、怒ることができる。

つまり、世界に怒れるということは、世界の事を少なからず考えていて、現状に不満があって、そしてそこに問題意識があり、変えるべきだと強く主張できる状態だ、ということだ。

解決策については冷静な分析は必要にせよ、スタートラインとして持つ感情としては非常に正しいと思う。

そして問うべきは、「その怒りは、自分の行動を駆り立てているのか」ということだ。

誰しも安らかな世界に生きたいと思っている。
しかし、そうもいかないのが現実である。

誰しもがなるべく小さな範囲で勝とうとする。
自分の会社さえよければ、自分の部署さえよければ、自分の家族さえよければ、自分さえよければ――と。

こうして、分母が少しずつ小さなものになっていったとき、その小さなもの同士がぶつかり、摩擦が起きる。

たとえば、カレーが1杯分しかなく、「自分だけが」という思いの者が二人集まればそのカレーを取り合う。安らかな世界は一瞬にして争いの場となる。

そして残念ながら、こうした争いをなくすことはできない。
みんなで手を取り合って仲良く喧嘩せずやっていこうよ、というのは子供たちの世界における絵空事にすぎない。利害関係が絡む大人の人間関係においては、お互いが引かない限りにおいては軋轢が生じざるを得ない。

だから、そういう争いが起きるたびに、自分が「おかしいな」と思ったら、そのたびに立ち上がって行動し続けるのが理想だ。
正直、気は進まないが、世の中に怒りを覚えながら、争いの中で勝利をおさめ続けないといけない。

そうして漸進的に世の中が良くなっていくのだろう。
革命を起こしてガラガラポン、ですべてが良くなるほど、世の中は単純ではない。
革命が引き起こしたのは決まって次の革命だったりするのである。

では、いまのわたしたちは「こんなもんだね」「しょうがないね」と諦めて、世の中に怒るエネルギーを失ってはいないか。
世界への強烈な問題意識と、そこに端を発する「憤」は、自分の中で眠ってはいないか。

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