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【育児】生活音はまあまあうるさい

無知の知という哲学の言葉がある。
昔の偉い人が議論をしているときに「お前は何も知らねーことを自覚していないみたいだが、俺は自覚してるぜ」と言って相手を困らせたことに始まる言葉らしい。
まさに自らの「無知」を「知」っているから無知の知である。

高校生の頃か、この言葉に出会ってから己は無知であるという戒めのもとに生きてきたつもりであったが、だからといって無知の知を自覚しているというわけでもないということにふと気付いた。

立場が変わったり新たな経験を経て、己の無知に気づくのだ。実際、私は赤ちゃんが生まれてからはじめて生活音のうるささに意識が向いた。

赤ちゃんが生まれてから家庭は赤ちゃん中心のオペレーションに変わる。
その際に物音が立つと赤ちゃんはびっくりして起きたり、泣いたりすることがある。
ふと日常を見返すと、生活音は結構うるさいことに気づいたのだ。
米を研ぐときの音とか、トイレの水を流すときとか、外に走るクルマの音とか、足音とか、大体はうるさいのだ。なんなら目覚まし時計をセットするときの「カチッ」という音だけで赤ちゃんがビクッとすることもある。

大人になってから生活音には慣れてしまうものだけれど、この世界に来て間もない赤ちゃんにとっては強烈な刺激であろう。
おそらく私も生まれたばかりの頃には大きな生活音に悩まされていたのかもしれないが、いよいよ30ともなると幸いにもそんな悩みはなくなった。幼い頃に知っていたことを忘れて、いつの間にか無知になっていたことに気づいたのである。

単に頭の中で考えてウンウン唸っているだけでは、実は無知であることにすら気づけないのかもしれない。日常におけるちょっとした経験や年月を重ねた先に、己の無知や愚かしさを自覚する日が来るのであり、だからこそ日々をどう生きるのかが問われてくる。

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