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「(社会主義は)自由と平等を合一しようとあくせくしているうちに、いつか指導者たちは一党独裁の特権階級社会をつくっちゃった」とか。

嫁さんと話をしていた時の話である。
大学の頃の話になったとき、「同級生で、『免許取れたからベンツをもらった』という子が結構いた」と言っていた。
私の周りにはベンツを「もらった」ひとはいない。そもそも、人のベンツを買うことができるほどの余裕がある家庭などおよそ見たことがない。
世の中、とんでもない家庭もあるんだなと思ったとき、にわかに私は「平等とは実にはかないものだ」と感じてしまった。

いつからか、世界中で平等がしきりに叫ばれるようになった。
この世界はもとより、極めて不平等なものだ。
かっこいいひとといまいちなひとがいる。
足が速い子もいるし遅い子もいる。
頭がいいやつもいれば悪いやつもいる。
金持ちの家もあれば、貧乏な家もある。
女性だからという理由で乱暴される場所もあれば、平穏に暮らせる場所もある。
世界のどこかで戦争が起き凍え死ぬ人がいても、今この瞬間日本にいるわたしたちはあたたかい飯と風呂にありつける。
この世界では実に適当に才能が割り振られていて、そして不平等だ。
天は平気で二物も三物も与えたりする。

平等という言葉を盾に社会変革を訴えるのは、言うなればゆとり教育のように、「頭の悪い子がついていけないので、カリキュラムを減らしましょう」という発想と同じだ。本来であれば「ついていけない子がいればその子には補習をしましょう」「わからないなら教えてあげるね」というのが普通の発想である。
平等という言葉は、一見すれば非常に見栄えがいい。身勝手な正義に、人を酔わせる言葉である。

いま、世の中の平等の観念は歪んでいると思う。平等を過度に追い求めすぎるなかで自由が制約されはじめている。
組織や全体の足を引っ張ってまで、自分が生きやすい社会を構築したがる声も沢山聴く。
残念ながら社会や組織は自分にとって生きやすいようにはできていない。組織は組織の論理で動くだけだ。

自分の人生は社会や組織がどうにかしてくれるという期待はいい加減捨てた方がいい。
そもそも、何回裏切られてきたのかを冷静に振り返ってみたらいい。
国家が己の期待に応えてくれたことが、人生において何度あったか?
規制をかけてもらって、自由を奪われ続け、わたしたちは平等になっているのか。
国民負担率が高くなったって、金持ちはいつまで経っても金持ちだし、微妙な人はいつまでも微妙だ。
縛られたがって損をしているだけなのだ。

だったら、いっそ国に頼るなんてことをあきらめて、己がまずはしっかりと身を立てねばならない。その邪魔を国はしなければいい。
福沢諭吉の言う「立身出世」である。その先に自分が富める者に、恵まれたものになる努力が必要だ。その前提は平等の希求ではなく、自由である。

開高健という作家がいる。彼は「知的で痴的な教養講座」という本のなかで、
「自由と平等というのは、もともと相反する概念なんだ。これを自由・平等と一括してスローガンにしちゃったために、厄介なことになってくる。その一番弊害を被っているのが、社会主義でね。自由と平等を合一しようとあくせくしているうちに、いつか指導者たちは一党独裁の特権階級社会をつくっちゃった。これが人間という愚かな存在のなせるわざさね」
と、自由と平等が両立し得ないことを指摘している。

自由の先に地位や名誉、資本を勝ち取ったそのひとが「いろいろ好きにやらせてもらったわけだから、少しは世の中にお返しをしよう」と自覚できるかどうかが、平等という到達しえない道の入り口なのではあるまいか。

noblesse obligeの精神なかりせば、平等など見果てぬ夢である。

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