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日常に異空間を

小さいころ、母親から「人の家に行くときには替えの靴下を持っていけ」と言われていた。

幼少期なので「面倒くさい」の一言で母親のしつけを一蹴していたのだが、最近たしなみ程度にお茶をはじめ、「茶室に入る前に白い足袋に履き替える」というルールがあることを知った。

両親はかつて茶道をやっていたので今更になって母親が私に「人の家に行くときは・・・」としつけた理由がわかった。

「親の心、子知らず」とはよくいうものだが、20年以上たってようやっとしつけの意味を知ったわけである。

もしお茶をやらなかったら母親のしつけの意味を知る日はもっともっと遅くなっていただろう。よくわからなくても、とりあえず習ってみるもんだと感じる。


お茶の世界では、茶室に入ってしまえば、外の世界にある上下関係は関係ない。
当時であれば武士だろうが何だろうが、茶室に入れば一個の人間としての意味しか持たないわけである。
いってしまえば、外界と遮断された異空間がそこにあるということだ。


私自身、日々仕事に忙殺されているほど、外界と遮断されたお茶の稽古が実に不思議なものに思えてくる。「世界のあちらではせわしなく動く人々がいるのに、自分の目の前にあるのは非常に平穏で凪いだ時間である」と考えると、世界の時間のめぐり方は実に多様である。

さらに、時代を超えてみると茶は前述のように武士もやっていたものである。すなわち、命を使って戦いに出る立場の人間なわけである。
おまけに人生もいまより短い。

命のやり取りをしていた当時の武士にとって、眼前に広がる茶室はどう映っていたのだろうか。死が突如として目の前をよぎる人生のなかで、茶室の静寂はどれほど美しかったのか。それは多忙を極める現代人の比ではないはずだ。

生きることが当たり前になり、そして長生きになるにつれて、時間の価値というものは次第に薄れてきた。

ジェームス・ディーンよろしく「太く、短く生きる」みたいな生き方が称揚されない現代社会にあって、死を身近なものとして捉えて初めて気づく生の価値に、思いが至ることは少ない。

お茶のように、歴史あるものに触れることで、「イマ・ココ」だけではない「カツテ・ドコカデ」の世界に身を投じることができる。
伝統の世界を学ぶことの価値のひとつは、こういった側面にあるのではないかと思う。
悠久の時を経て繰り返されてきた営みを学ぶ中でふと気づく何かと、現代に立ち返ったときの自分の至らなさを知るわけだ。
だからこそ歴史を紡ぐことには価値がある。逆に、歴史を失った人々には、こういう想像を巡らせる機会すら与えられないのだから、実に不幸である。

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