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【育児】つかまり立ちした娘、わかりやすくドヤ顔してくる

娘はいつの間にか机などの少し高いところにつかまって、すっくと立ちあがるようになった。
いわゆる「つかまり立ち」の始まりである。

つかまり立ちをした娘は、覚束ない足取りでゆらゆらと体が揺れる。少し余裕が出ると、こちらを見ては「どうだ」と言わんばかりの顔をしてニコニコとしている。
わたしも、( ˙ 0 ˙ )←こんな感じの顔で「すごいねえ」というと、娘は我が意を得たりとニンマリとする。実に可愛らしいが、ここまでわかりやすいコミュニケーションを大人になってからなかなかしていないなと思いが至った。

コミュニケーションは一般に、相手の期待する応対を汲み取ってやっていくことできわめてスムーズになる。たとえば、笑いを取りたい話をしていると思えば表情を緩めて話を聞いたり、厳しい指導をしている時には顔を引き締め、無駄口は叩かず黙ったりとさまざまだ。この相手の意図を汲み取ったり自然に察したりすることができないとコミュニケーション上のトラブルを抱えやすい。
一言でまとめてしまえば、場面、人との関係、言葉遣いといった、さまざまな「間」を問われるのがコミュニケーションだ。

赤ちゃんでも、その「間」をなんとなくわかっているようで、親や親しい間柄の人にはニコニコと笑うことがあっても、人見知りをしている場合はぎゃあと泣き出すし、知らない人には無関心で終わることもある。赤ちゃんにとっての「間」がこれほどわかりやすく表れる瞬間はない。

そういえば、とても小さなころに私は自らの背丈より高い位置にある家の洗面台を登りきるという偉業を成し遂げたことがあった。それを見つけた母親によるととんでもないドヤ顔をしながらオムツをいたく濡らしていたらしい。
大きくなって思春期になったとき、親とのコミュニケーションなどほぼなく、言葉少なに必要な発話だけをしていた記憶がある。いわば親と私との「間」が開いた時期と言ってもいい。親として子供を見ていろいろわかっても、私の中だけで決して口外せず秘めていた思いはたくさんあった。

娘もそのうち大きくなっていくにつれて、次第にわたしとの「間」も広がっていくのであろうし、こんなにもわかりやすい「間」を共有できるコミュニケーションをとれる時期もそう長くないのだろう。いつの間にか思いがすれ違う日がやってくると思った時、親として幾許の淡い寂寥を覚えるのは私だけなのだろうか。

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