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地震の予言が外れたら安心をするけれど

例えば、うさんくさい予言者が「来年のいつ頃に地震が起きる…」と予想をしたとき、我々は信じるか信じないかは別として、その日を意識してしまうものだ。

大体、そういう予言は当たらないと相場は決まっているのだが、そういう予想が外れた時に「よかった」と思っている自分がいたりする。

では逆に、うさんくさい予言者が「あした買った宝くじが当たるでしょう…」と予想をして喜々として宝くじを買ったとしよう。

大体、そういう予言は当たらないと相場は決まっているのだが、そういう予想が外れた時、「詐欺師め」と思っている自分がいたりする。

悲観的な予測は当たりはずれを問わずに批判の対象とされづらい。かたや楽観的な予測は、外れた時のダメージがとにかくでかいという違いがある。


そうした構造は現在の新型コロナウイルス感染症についても同じである。

人々の反応、対応策など念には念を入れた警戒を求める声がいまだに多くある。悲観的な見通しが多い。地震の予言と同じで、悲観的な見通しを持っておくだけで、新型コロナウイルス感染症が大した病気ではなかったとしても「そんな大げさな問題じゃなかったけど、まあよかったよかった」という話になる。

つまり、予想が外れても傷つかないのである。語り手側のリスクヘッジとも言ってよい。


かたや、「風邪です」みたいな言論であるとどうなるか。当たれば「さすが!」となるが、外れれば上記の宝くじの例のように悲惨だ。「お前は嘘つきだ」「見通しが甘い」などそしりは免れない。

たとえ新型コロナウイルス感染症が大した病気ではなかった時であっても、特に注目を集めることもない。


楽観的な見通しを語ることは、発言者にとってメリットがない。リスクを背負う。それがたとえ、正しくてもだ。

何につけてもメディアが総じて悲観的で批判的なのはそのせいだ。強気になれないのは、発言者をするものとしてのリスクヘッジにすぎない。そういう態度が個々人の精神性を弱くするという指摘はもっともだ。

「言葉を人前で語ることのリスク」を考え、見ている側がどう感じるのかについて思いを馳せないと、いろんなことを見誤る。マスメディアに触れるときもそれは同じだ。報道機関に対しては常に批判的でなくてはならないし、真実を見つけるのはマスメディアでも有識者でもなく己の目でしかない。だからひとは、常に学ばねばならない宿命を帯びているのだと思う。

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